散文詩・詩的散文
本文約30,100字 ・ 読了時間 約61分
あらすじ(AIが作成しました)
詩人や幼兒、哲人といった多様な存在や感情をめぐり、光やリズム、感傷といった芸術の源泉を詩的言語で綴る。また、自身の窮乏生活を送る大井町での日常的な光景や、妹への想いを吐露する秋の日の情景など、生活の中にある孤独と哀しみを独自の感性で描き出す。自身の魂を救済する存在としてのドストエフスキーへの言及を交え、詩という生命の光と、人間が抱く根源的な感情のあり方を情熱的に描写する散文詩集。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
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SENTIMENTALISM
センチメンタリズムの極致は、ゴーガンだ、ゴツホだ、ビアゼレだ、グリークだ、狂氣だ、ラヂウムだ、螢だ、太陽だ、奇蹟だ、耶蘇だ、死だ。
死んで見給へ、屍蝋の光る指先から、お前の至純な靈が發散する。その時、お前は、ほんたうに OMEGA の、青白い感傷の瞳を、見ることが出來る。それがおまへの、ほんたうの、人格であつた。
なにものもない。宇宙の『權威』は、人間の感傷以外になにものもない。
手を磨け、手を磨け、手は人間の唯一の感電體である。自分の手から、電光が放射しなければ、うそだ。
幼兒が神になる。
幼兒は眞實であり、神は純一至高の感傷である、神の感傷は玲瓏晶玉の如くに透純である。神は理想である、人は神になるまへに硝子玉の如く白熱されねばならない。
眞實は實體である、感傷は光である。
幼兒の手が磨かれるときに、琥珀が生れる。彼は眞珠となる。そして昇天する。
實體の瓦石は、磨いても光らない。
實體の瓦石とは、生れながらの成人である。パリサイの學徒である。眞實のない製詩職工である。
涙の貴重さを知らないものに眞實はない。
哲人は詩人と明らかに區別される。彼は、最もよく神を知つて居ると自負するところの、人間である。然も實際は、最もよく神を知らない、人間である。彼は偉大である、けれども決して神を見たことがない。
神を見るものは幼兒より外にない。
神とは『詩』である。
哲學は、概念である、思想である、形である。
詩は、光である、リズムである、感傷である。生命そのものである。
哲人も往往にして詩を作る。ある觀念のもとに詩を作る。勿論、それ等の詩(?)は、形骸ばかりの死物である。勿論、生命がない。感動がない。
然るに、地上の白痴は、群集して禮拜する。白痴の信仰は、感動でなくして、恐怖である。
下品の感傷とは、新派劇である。中品の感傷とはドストヱフスキイの小説である。上品の感傷とは、十字架上の耶蘇である、佛の涅槃である、あらゆる地上の奇蹟である。
大乘の感傷には、時として理性がともなふ。けれども理性が理性として存在する場合には、それは觀念であり、哲學であつて『詩』ではない。