TRENDIA CLASSIC

散文詩・詩的散文

萩原朔太郎

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SENTIMENTALISM

センチメンタリズムの極致は、ゴーガンだ、ゴツホだ、ビアゼレだ、グリークだ、狂氣だ、ラヂウムだ、螢だ、太陽だ、奇蹟だ、耶蘇だ、死だ。

死んで見給へ、屍蝋の光る指先から、お前の至純な靈が發散する。その時、お前は、ほんたうに OMEGA の、青白い感傷の瞳を、見ることが出來る。それがおまへの、ほんたうの、人格であつた。

なにものもない。宇宙の『權威』は、人間の感傷以外になにものもない。

手を磨け、手を磨け、手は人間の唯一の感電體である。自分の手から、電光が放射しなければ、うそだ。

幼兒が神になる。

幼兒は眞實であり、神は純一至高の感傷である、神の感傷は玲瓏晶玉の如くに透純である。神は理想である、人は神になるまへに硝子玉の如く白熱されねばならない。

眞實は實體である、感傷は光である。

幼兒の手が磨かれるときに、琥珀が生れる。彼は眞珠となる。そして昇天する。

實體の瓦石は、磨いても光らない。

實體の瓦石とは、生れながらの成人である。パリサイの學徒である。眞實のない製詩職工である。

涙の貴重さを知らないものに眞實はない。

哲人は詩人と明らかに區別される。彼は、最もよく神を知つて居ると自負するところの、人間である。然も實際は、最もよく神を知らない、人間である。彼は偉大である、けれども決して神を見たことがない。

神を見るものは幼兒より外にない。

神とは『詩』である。

哲學は、概念である、思想である、形である。

詩は、光である、リズムである、感傷である。生命そのものである。

哲人も往往にして詩を作る。ある觀念のもとに詩を作る。勿論、それ等の詩(?)は、形骸ばかりの死物である。勿論、生命がない。感動がない。

然るに、地上の白痴は、群集して禮拜する。白痴の信仰は、感動でなくして、恐怖である。

下品の感傷とは、新派劇である。中品の感傷とはドストヱフスキイの小説である。上品の感傷とは、十字架上の耶蘇である、佛の涅槃である、あらゆる地上の奇蹟である。

大乘の感傷には、時として理性がともなふ。けれども理性が理性として存在する場合には、それは觀念であり、哲學であつて『詩』ではない。

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