僕は
本文約1,000字 ・ 読了時間 約3分
あらすじ(AIが作成しました)
作者自身の断片的な思考や日常の些細な経験を綴る。屈辱に対する時間差の反応や、樹木に人間のような前後を感じる感覚、あるいは他者への軽蔑や自己嫌悪の念を率直に記す。また、現実主義者やロマン主義者など複数の顔を持つ自己の葛藤や、言葉が持つ両義性について考察を巡らせる。精神生活を蚤のように跳ねるものと表現し、見知らぬ人への挨拶に戸惑う心境など、一人の人間が抱える複雑な内面や日常の違和感を多彩な視点から描き出す。
💰 この本を応援する(投げ銭)
誰でもわたしのやうだらうか?――ジュウル・ルナアル
僕は屈辱を受けた時、なぜか急には不快にはならぬ。が、彼是一時間ほどすると、だんだん不快になるのを常としてゐる。
×
僕はロダンのウゴリノ伯を見た時、――或はウゴリノ伯の写真を見た時、忽ち男色を思ひ出した。
×
僕は樹木を眺める時、何か我々人間のやうに前後ろのあるやうに思はれてならぬ。
×
僕は時々暴君になつて大勢の男女を獅子や虎に食はせて見たいと思ふことがある。が、膿盆の中に落ちた血だらけのガアゼを見ただけでも、肉体的に忽ち不快になつてしまふ。
×
僕は度たび他人のことを死ねば善いと思つたことがある。その又死ねば善いと思つた中には僕の肉親さへゐないことはない。
×
僕はどう云ふ良心も、――芸術的良心さへ持つてゐない。が、神経は持ち合せてゐる。
×
僕は滅多に憎んだことはない。その代りには時々軽蔑してゐる。
×
僕自身の経験によれば、最も甚しい自己嫌悪の特色はあらゆるものにを見つけることである。しかもその又発見に少しも満足を感じないことである。
×
僕はいろいろの人の言葉にいつか耳を傾けてゐる。たとへば肴屋の小僧などの「こんちはア」と云ふ言葉に。あの言葉は母音に終つてゐない、ちよつと羅馬字に書いて見れば、Konchiwaas と云ふのである。なぜ又あの言葉は必要もないSを最後に伴ふのかしら。
×
僕はいつも僕一人ではない。息子、亭主、牡、人生観上の現実主義者、気質上のロマン主義者、哲学上の懐疑主義者等、等、等、――それは格別差支へない。しかしその何人かの僕自身がいつも喧嘩するのに苦しんでゐる。
×
僕は未知の女から手紙か何か貰つた時、まづ考へずにゐられぬことはその女の美人かどうかである。
×
あらゆる言葉は銭のやうに必ず両面を具へてゐる。僕は彼を「見えばう」と呼んだ。しかし彼はこの点では僕と大差のある訣ではない。が、僕自身に従へば、僕は唯「自尊心の強い」だけである。
×
僕は医者に容態を聞かれた時、まだ一度も正確に僕自身の容態を話せたことはない。従つてをついたやうな気ばかりしてゐる。
×