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TORENDIA

又一説?

本文約1,100字 ・ 読了時間 約3分

あらすじ(AIが作成しました)

短歌が将来の文芸から取り残されるかという問いに対し、歌作の素人である著者が私見を綴る。短歌の命運は、未だ生まれざる大詩人がその形式を用いて感情を表現するか否かに左右されると説く。また、短歌が持つ三十一文字という制約と、明治・大正期の歌人たちが成し遂げた成果を照らし合わせ、その情調の価値を考察する。物盛れば必ず衰えるという天命を踏まえ、将来の短歌が辿る可能性について、あくまで素人の立場から一つの見解を論じる。

芥川龍之介

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🎧 又一説? / 朗読音声: VOICEVOX:春日部つむぎ

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改造社の古木鉄太郎君の言ふには、「短歌は将来の文芸からとり残されるかどうか?」に就き、僕にも何か言へとのことである。僕は作歌上の素人たる故、再三古木君に断つたところ、素人なればこそ尋ねに来たと言ふ、即ちやむを得ずペンを執り、原稿用紙に向つて見るに、とり残されさうな気もして来れば、とり残されぬらしい気もして来る。

まづ明治大正の間のやうに偉い歌よみが沢山ゐれば、とり残したくともとり残されぬであらう。そこで将来も偉い詩人が生まれ、その詩人の感情を盛るのに短歌の形式を用ふるとすれば、やはりとり残されぬのに相違ない。するととり残されるかとり残されぬかを決するものは未だ生まれざる大詩人が短歌の形式を用ふるかどうかである。

偉い詩人が生まれるかどうかは誰も判然とは保証出来ぬ。しかしその又偉い詩人が短歌の形式を用ふるかどうかは幾分か見当のつかぬこともない。尤も僕等が何かの拍子に四つ這ひになつて見たいやうに、未だ生まれざる大詩人も何かの拍子に短歌の形式を用ふる気もちになるかも知れぬ。しかしそれは例外とし、まづ一般に短歌の形式が将来の詩人の感情を盛るに足るかどうかは考へられぬ筈である。

然るに元来短歌なるものは格別他の抒情詩と変りはない。変りのあるのは三十一文字に限られてゐる形式ばかりである。若し三十一文字と云ふ形式に限られてゐる為に、その又形式に纏綿した或短歌的情調の為に盛ることは出来ぬと云ふならば、それは明治大正の間の歌よみの仕事を無視したものであらう。たとへば斎藤氏や北原氏の歌は前人の少しも盛らなかつた感情を盛つてゐる筈である。しかし更に懐疑的になれば、明治大正の間の歌よみの短歌も或は猪口でシロツプを嘗めてゐると言はれるかも知れぬ。かう云ふ問題になつて来ると、素人の僕には見当がつかない。唯僕に言はせれば、たとへば斎藤氏や北原氏の短歌に或は猪口でシロツプを嘗めてゐるものがあるとしても、その又猪口の中のシロツプも愛するに足ると思ふだけである。

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