私も一人の女として
本文約3,200字 ・ 読了時間 約7分
あらすじ(AIが作成しました)
亡き許婚の代理人と結婚の儀式を行った松本伝平氏と、愛人の病室にも近づけぬまま死を選んだ弓子さんの事例を軸に、現代社会における純情の在り方を綴る。愛情が社会的制約によって阻害され、消極的な形態としてのみ称賛される現実を鋭く考察する。愛とは生を貫く力であり、自己の幸福を追求することは社会との闘争であると説き、安易な感傷や現実逃避に陥らず、人間らしく生きるための具体的な実践と自覚を促す評論である。
💰 この本を応援する(投げ銭)
今私たちの前には、その事件が当事者の愛の純情に発しているという意味で人の心を打った二つの現象が示されている訳ですが、私は松本伝平氏の場合と弓子さんの場合とは、それぞれ別のもので、違った分析がされなければならないものではなかろうかと考えます。
松本氏が、急になくなられた許婚の愛人栄子さんと岳父の代人で結婚の盃をあげられた行為は、氏の年齢や学歴やその地方での素封家であるというような条件と対照して、私共の注意を一層呼び起したと思われます。「松本氏の年や地位にてらして何という今の世に珍しい純情であろう!」そこに同情と或る感歎が与えられているのだが、私は、その点を大変面白く思いました。何故と云えば、考えて御覧なさい、世間が松本氏の純情を特別な美しいものとしてとりあげた反面には、実に明瞭に、今日の社会で三十越して、金持ちで、博士なんていう男はどうせ女ずれがしている。女房は便利な家庭常備品という位にしか考えていないという一般の通念が反映しているではありませんか。
現代社会の現実はそのように人間の愛情をも低下させ貧弱なものにしているから、私達は一つの例外な行為として松本氏の栄子さんに対する愛情の表現に目を見張ったのです。
私は、松本氏がああいうやりかたで自分の真情を吐露されたのは、それで松本氏の気がすみ、生きる力となったのなら、よいではないかと思います。栄子さんもそれを楽しみ、死ぬときも良人としての松本氏の俤を心に抱いて逝かれたとしたら、松本氏はまじり気なくあの当時の打撃によって、「自身の妻としての栄子」に対する何か特別な、何か心持を満す表現がほしかったのであろうと察せられます。只、私は、妻に対するそういう謂わば非常に感覚的な苦しい愛情の表現の形式として、松本氏が三々九度の盃というやり方をとられたところに、氏の生活形式の内に根づよくのこされている古風なもの、封建的なものを感じただけです。