電車の見えない電車通り
本文約5,600字 ・ 読了時間 約12分
あらすじ(AIが作成しました)
大規模な整理案と解雇に抗議してストライキに突入した市電の様子を綴る。全従業員が解雇される事態の中、臨時運転手が動かすバスや電車が運行される街の情景を描く。籠城する労働者たちと対照的に、ストライキ破りを行う人々の緊張や戸惑い、さらに市民の無関心な視線を詳述する。争議の背後で発行された復職を促す不可解な通告や、組織的な対応に終始する双方の姿勢を冷静に捉え、労働運動の現実を見つめる。
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九月一日の夕刊に、物々しい防空演習の写真と一緒に市電整理案が発表された。全従業員一万八百人を全部解雇、改めて新規定の四割減給で採用し、八百五十万円を浮かして、永年にたまった八百万円の赤字を一気にうめようと云う整理案である。
翌日の夕刊で、その整理案撤回を東交が要求して、罷業準備の指令を発したという記事をよんで、私達はそれが突飛なことであるというような感銘はちっとも受けなかった。整理案の内容は、既に一般市民に、東交がそう出ることの自然であるという感じを抱かせずにおかない種類のものであったということが出来よう。
海をへだてたアメリカでは、丁度時を同じくして全米繊維の大罷業が七十二万人の労働者をふくんではじまっている。
三日の夕方、東交代表河野争議部長が、下唇を突出し気味に背中を堅くして椅子にかけている山下局長に向って整理案撤回要求書を差し出しているところを撮った写真が出た。でっぷり太った角がりでチョビ髭を生やした河野が詰襟服姿で起立し、要求書の両端を押えて山下局長へ向ってひろげている場面である。重い空気がマグネシュームをたいてとられた写真の面に感じられるが、その雰囲気は率直に殺気立つものとは違った、寧ろ大変大人っぽい、謂わば相方とも腹のなかは心得きっている上での折衝と云う情景である。私は電燈の下で長いことその写真を眺めた。そして、河野争議部長が肉厚な顔なのに要求書の端を押えている左手の小指を軽く曲げているのは、どんな性格を示しているのだろうかなどと考えるのであった。
愈々五日の始発から総罷業と決定した前の晩、おそくなってから私は用事の帰途、早稲田車庫の前を通った。
電車が途絶えた折からで、からりとした夜の大通りの上に赤青の信号燈が閃き、普段の夜のとおり明るい事務所の内で執務している従業員の姿が外から見えた。何心なく行くと、引込線の通った車庫のわきに一寸した空地のような場処がある。その叢の物かげに、洋服姿の男が一人佇んでいる。立小便をしている風に見えぬ。姿はおぼろだが眼は往来に向って絶えず光っているのがわかるのであった。