水害雜録
本文約11,700字 ・ 読了時間 約24分
あらすじ(AIが作成しました)
降り続く豪雨により、周囲は浸水の危機にさらされる。多くの係累を抱え不安に苛まれる語り手は、牛舎への避難措置や家財の整理に奔走し、極限状態の中で恐怖と対峙する。やがて家屋が浸水し全てが失われるという全滅的状況に直面すると、不思議と平然とした心持ちで安らかな眠りにつく。水が引いた後の荒廃した光景の中で、語り手は過酷な現実と向き合いながら、自身の生き方や幸福のあり方について思索を巡らせ、今後の生活への新たな覚悟を定めるまでを描く。
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一
臆病者といふのは、勇氣の無い奴に限るものと思つて居つたのは誤りであつた。人間は無事を希ふの念の強よければ、其の強いだけそれだけ臆病になるものである。人間は誰とて無事を希ふの念の無いものは無い筈であるが、身に多くの係累者を持つた者、殊に手足まとひの幼少者などある身には、更に痛切に無事を願ふの念が強いのである。
一朝禍を蹈むの塲合にあたつて、係累の多い者程、慘害は其慘の甚しいものがあるからであらう。
天災地變の禍害と云ふも、之れが單に財産居住を失ふに止まるか、若くは其身一身を處決して濟むものであるならば、其悲慘は必ずしも慘の極なるものでは無い。一身係累を顧みるの念が少ないならば、早く禍の免れ難きを覺悟したとき、自から振作するの勇氣は、以て笑ひつゝ天災地變に臨むことが出來ると思ふものゝ、絶つに絶たれない係累が多くて見ると、どう考へても事に對する處決は單純を許さない。思慮分別の意識からさうなるのでは無く、自然的な極めて力強い餘儀ないやうな感情に壓せられて勇氣の振ひ作る餘地が無いのである。
宵から降出した大雨は、夜一夜を降通した。豪雨だ……そのすさまじき豪雨の音、さうして有所方面に落ち激つ水の音、只管事なかれと祈る人の心を、有る限りの音聲を以て脅すかの如く、豪雨は夜を徹して鳴り通した。
少しも眠れなかつた如く思はれたけれど、一睡の夢の間にも、豪雨の音聲におびえて居たのだから、固より夢か現かの差別は判らないのである。外は明るくなつて夜は明けて來たけれど、雨は夜の明けたに何の關係も無い如く降り續いて居る。夜を降り通した雨は、又晝を降通すべき氣勢である。
さんざん耳から脅された人は、夜が明けてからは更に目からも脅さる。庭一面に漲り込んだ水上に水煙を立てゝ、雨は篠を突いてるのである。庭の飛石は一箇も見えてるのが無いくらゐの水だ。いま五六寸で床に達する高さである。
もう疊を上げた方がよいでせう、と妻や大きい子供等は騷ぐ。牛舍へも水が入りましたと若衆も訴へて來た。