『悲しき玩具』を読む
本文約3,700字 ・ 読了時間 約8分
あらすじ(AIが作成しました)
石川啄木の詩集『悲しき玩具』に対する書評を収める。著者は歌の形式を重視する立場から、刹那的な感情をそのまま詠む啄木の作歌手法に不満足な点を指摘しつつも、歌に対する信念と要求が一致している点を高く評価する。また、作者の記録としてではなく独立した生命を持つ歌のあり方を考察し、技巧や粉飾に偏りがちな当時の歌壇に対し、形式に拘泥せず自らを投影する啄木の歌風から学ぶべき点があると説く。
💰 この本を応援する(投げ銭)
石川啄木君は、齢三十に至らずして死なれた。『一握の砂』と『悲しき玩具』との二詩集を明治の詞壇に寄与した許りで死なれた。
石川君とは鴎外博士宅に毎月歌会のあつた頃、幾度も幾度も逢つた筈である。処が八度の近視眼鏡を二つ掛ける吾輩は、とう/\其顔を能く見覚える事も出来なくて終つた。
さうして今此遺著を読んで見ると、改めて石川君に逢着したやうな気がする。かすかな記憶から消えて居つた、石川君の顔が思ひ浮ぶやうな心持がした。
それは吾輩が今此詩集を味読して、石川君の歌の特色を明に印象し得たからであらう。
此詩集に収められた歌と、歌に対する石川君の信念と要求とに関する感想文とを繰返して読んで見ると、吾輩などの、歌に対する考や要求とは少なからず違つて居るから、其感想文には直に同感は出来ない。従て其作歌にも飽足らぬ点が多い。
だが読んで見れば、感想文も面白く、作歌も相当に面白く、歌と云ふものを、石川君のやうに考へ、歌と云ふものに、さういふ風に這入つて行かねばならない道もあるだらうと首肯される点も充分認められるのである。
吾輩は只石川君の所謂(忙しい生活の間に心に浮んでは消えて行く刹那々々の感じを愛惜する云々)といふやうな意味で作られたものが最善の歌とは思へないだけである。記述して置かなければ、消えて忘れて終ふ刹那の感じを歌の形に留めて置くと云ふだけでは、生命の附与された、創作と認めるには、顕著な物足らなさを、吾輩は思はない訳に行かないのである。
歌はこれ/\でなければならないなどゝは吾輩も云ひたくはない。又そんな理窟の無いことも勿論である。だから吾輩は只此集のやうな歌に満足が出来ないと云つて置くのみだ。
石川君はまだ年が若かつた、[#「若かつた、」は底本では「若かつた。」]吾輩はそれでかう云ひたい。石川君は此のやうな歌を作り作りして行つて最う少し年を取つて来たら、屹度かう云ふ風な歌許りでは満足の出来ない時が来る。それが内容の如何と云ふことでなく、技巧の上手下手と云ふことでもなくて、既成創作が含める生命の分量如何に就て、必ず著しい物足らなさを気づいて来るに違ひ無いと思ふのである。