TRENDIA CLASSIC

或売笑婦の話

徳田秋聲

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この話を残して行つた男は、今どこにゐるか行方もしれない。しる必要もない。彼は正直な職人であつたが、成績の好い上等兵として兵営生活から解放されて後、町の料理屋から、或は遊廓から時に附馬を引いて来たりした。これは早朝、そんな場合の金を少しばかり持つて行つた或日の晩、縁日の植木などをもつて来て、勝手の方で東京の職人らしい感傷的な気分で話した一売笑婦の身の上である。

その頃その女は、すつかり年期を勤めあげて、どこへ行かうと自由の体であつたが、田舎の家は母がちがふのに、父がもうゐなくなつてゐたし、多くの客の中でどこへ落着かうといふ当もなかつたので……勿論西の方の産れで、可也な締りやであつたから、倉敷を出して質屋へあづけてある衣類なども少くなかつたし、今少し稼ぎためようと云ふ気もあつたので、楼主と特別の約束で、いつも二三枚目どころで相変らず気に向いたやうな客を取つてゐた。

その客のなかに、或私立大学の学生が一人あつた。彼は揉みあげを短く刈つて、女の羨しがるほどの、癖のない、たつぷりした長い髪を、いつも油で後ろへ撫であげ、いかに田舎の家がゆつたりした財産家で、また如何に母親が深い慈愛を彼にもつてゐるかと云ふことを語つてゐるやうな、贅沢でも華美でもないが、どこか奥ゆかしい風をしてゐた。勿論年は彼女より一つ二つ少いと云ふに過ぎなかつたが、各階級の数限りない男に接して来た彼女の目から見れば、それはいかにも乳くさい、坊つちやん/\した幼ない青年に過ぎなかつた。

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