歯痛
本文約9,900字 ・ 読了時間 約20分
あらすじ(AIが作成しました)
融は愛子を同伴し、A温泉を皮切りに軽井沢へと旅をする。旅先で旧知の俳人やかつての知人たちと交流するが、融は自らの破綻した生活や仕事への劣等感から、周囲に対して苛立ちや不機嫌な態度を募らせる。歯茎の激しい痛みに襲われ、心身ともに疲弊するなか、無邪気に自身の評判を喜ぶ愛子に対しても拒絶的な態度を示してしまう。孤独と苛立ちを抱えながら、暑さと痛みに耐えかねて汽車で移動する姿を描く。
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M―市を通つてA―温泉へ着いたのは、もう夜であつた。
今年は殊に万遍なく暑さの続いた夏の半以上を東京で過した融は、愛子同伴で、次男の養子問題についての用件を帯び旁々三四日の予定で、山の空気を吸ひにS―湖畔の親類を訪ねた帰りを、彼は煤烟に悩まされ通しの、中央線を避けて、途中どこかへ寄つて別の方面から帰るつもりで、交通の便利のいゝA―温泉へと立寄ることにしたのであつた。彼がその温泉を見るのは六七年目であつた。格別気に入つてゐた訳ではなかつたけれど、死んだ娘を旅へ連れ出したのは、その温泉より外にはなかつたので、何んとはなし心を惹かれるのであつた。
「ほんの遊散場に過ぎないんだけれど、割合色々な人が行つてゐるんだ。」融はM―市を通過しつゝある自動車のなかでそんな話をした。
わづか三四日の旅行なので、成るべく有効に使ひたいと思つたし、この山国には行つて見たい処が沢山あつたけれど、結局そんな平凡な処へ落著くより外なかつた。子供達を海岸へやつてある関係から、東京を長く離れることは許されなかつた。
「さう。何処でも可いのよ。出た以上は少し旅行気分を味はつて帰りたいわ。」
「A―で一泊して、それから又途中どこかへ寄らう。何んなところか軽井沢へおりて見ようかしら。」
「好いわ。行きたい!」
融の亡妻の親類であるだけに、好意はもつてゐてくれても、愛子に取つては何となし息苦しい其の家を立つて来たので、彼女は遽かに元気づいてゐた。
「私幸福よ!」愛子はさう言つて、袴をはいた彼の膝のうへに片手をおいた。