TRENDIA CLASSIC

真珠夫人

菊池寛

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奇禍

汽車が大船を離れた頃から、信一郎の心は、段々烈しくなって行く焦燥しさで、満たされていた。国府津迄の、まだ五つも六つもある駅毎に、汽車が小刻みに、停車せねばならぬことが、彼の心持を可なり、いら立たせているのであった。

彼は、一刻も早く静子に、会いたかった。そして彼の愛撫に、渇えている彼女を、思うさま、いたわってやりたかった。

時は六月の初であった。汽車の線路に添うて、潮のように起伏している山や森の緑は、少年のような若々しさを失って、むっとするようなあくどさで車窓に迫って来ていた。たゞ、所々植付けられたばかりの早苗が、軽いほのぼのとした緑を、初夏の風の下に、漂わせているのであった。

常ならば、箱根から伊豆半島の温泉へ、志ざす人々で、一杯になっている筈の二等室も、春と夏との間の、湯治には半端な時節であるのと、一週間ばかり雨が、降り続いた揚句である為とで、それらしい乗客の影さえ見えなかった。たゞ仏蘭西人らしい老年の夫婦が、一人息子らしい十五六の少年を連れて、車室の一隅を占めているのが、信一郎の注意を、最初から惹いているだけである。彼は、若い男鹿の四肢のように、スラリと娜な少年の姿を、飽かず眺めたり、父と母とに迭みに話しかける簡単な会話に、耳を傾けたりしていた。此の一行の外には、洋服を着た会社員らしい二人連と、田舎娘とその母親らしい女連が、乗り合わしているだけである。

が、あの湯治階級と云ったような、男も女も、大島の揃か何かを着て、金や白金や宝石の装身具を身体のあらゆる部分に、燦かしているような人達が、乗り合わしていないことは信一郎にとって結局気楽だった。彼等は、屹度声高に、喋り散らしたり、何かを食べ散らしたり、無作法に振舞ったりすることに依って、現在以上に信一郎の心持をいら/\させたに違いなかったから。

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