本文へ移動
TORENDIA

筬の音

本文約2,000字 ・ 読了時間 約5分

あらすじ(AIが作成しました)

高安の春の穏やかな風景の中、車を進める語り手は、どこからともなく聞こえる筬の音に耳を傾け、幼い頃の記憶を呼び起こす。かつて一人で山路を分け入り、柿の木の下の小家で泣きながら機を織る女と出会った少年時代の出来事である。柿を拾ったことで女に追い詰められ、恐れと羞恥に震えたあの日。語り手は、今もその女の正体は神ではなかったかと疑いつつ、十年の月日を経て再びその地を訪れ、郷愁と記憶を反芻しながら旅路を辿る。

折口信夫

速度
🎧 筬の音 / 朗読音声: VOICEVOX:波音リツ

💰 この本を応援する(投げ銭)

1 / 3

わが車は、とある村に入りぬ。

軒ごとに吊りほせるかけ菜の、あるかなきかの風にゆらめきて、鶏のこゑ、長閑にきこゆ。

轍におこる塵かろく舞ひ、藪ぎはの緋桃の花、ほろり/\散る。高安の春、いま闌なり。

いつしか、村をはなれつ。から/\と軋り行くの右左、みだれ咲く菜の花遠くつゞきて、蒸すばかり立ちのぼる花の香の中を、黄なる、白き、酔心地に蝶の飛びては憩ひ、いこひてはとぶ。いづこともなく、筬のおときこゆ。

見れば、わが行く手にあたりて、常緑樹の森あり。音は、其方より聞え来るなり。

此音を耳にして、われは、ゆくりなくも、旧き記憶をよびおこして、回想の忘れ路をたどりぬ。

恋の淵・峯の薬師・百済の千塚など、通ひなれては、そなたへ足むくるもうとましきに、折しも秋なかば、汗にじむまで晴れわたりたる日を、たゞ一人、小さき麦稈帽子うち傾けて、家を出でつ。

山鳩の、梢に羽ぶく音だに聞ゆる淋しき山路を、「あゝ正成よ」など、高らかにうたひつゝ登る。

この道は、平群の櫟本へ出づるなりとか。

もみぢにはまだしけれど、聞きおよぶ竜田へは二里をこえずと、よべ乳母の語れるに、いでさらばと志しゝなりき。

行けど/\山かさなりて、峠なほ遥かなるに、日はゝや大阪の海に傾きかゝり、大空は、いよゝ青ずみて、行きかふ雲だになし。

夕べの山路には、人かどふ神の出るものよと聞けりしかば、暮れはてぬ程にともと来し道をひたくだりに走せくだる。

山の尾をいくめぐり、谷にそひ、谷をわたり、森のかげ路のをぐらきには、落葉ふむ跫音にもおびえつゝ、やゝ里近くなりたる処に、山畠の陸稲の、方一反、波うちかへすが中に交りて、大きなる柿の木の枝もとをゝに実りたるが、折からの入日をうけて立ちたる。と見れば、その木の本に小家ありて、其内より機おり唄のきこえ来るならずや。

ひそ/\と忍びよりて障子の穴よりうかゞふに、さだすぎたる女の、頬にみだれかゝる髪かきもあげで、泣きてはうたひ、唄ひては泣き、何になくらむ、かなしげにうたへるなりき。

様は遠州浜名の橋よ、いまはとだえて音もせぬ。

折口信夫の他の作品

同じジャンルの朗読つきの本