一
若の字、又稚とも書く。此伝説は、五説経の一つ(この浄瑠璃を入れぬ数へ方もある)として喧伝せられてから、義太夫・脚本・読本の類に取り込まれた為に、名高くなつたものであらうが、あまりに末拡がりにすぎて、素朴な形は考へ難くなつてゐる。併し、最流行の先がけをした説経節の伝へてゐるものが、一番原始に近い形と見て差支へなからう。
何故ならば、説経太夫の受領は、江州高観音近松寺から出され、四の宮明神の祭礼には、近国の説経師が、関の清水に集つた(近江輿地誌略)と言ふから、唐崎の松を中心に、日吉・膳所を取り入れた語り物の、此等の人々の為に綴られた物と言ふ想像は、さのみ無理ではあるまい。今其伝本が極めて乏しいから、此処には、わりあひに委しい梗概を書く。
嵯峨天皇の御代に、二条の蔵人前の左大臣清平といふ人があつた。御台所は、一条の関白宗嗣の女で、二人の仲には、子が無かつた。重代の重宝に、刃の大刀・唐鞍(家のゆづり、やいばの大刀。からくら。天よりふりたる宝にて)の二つがあつた。第六天の魔王の祟りで、女院御悩があつたが、天子自ら二才の馬に唐鞍を置き、刃の大刀を佩いて、紫宸殿に行幸せられると、魔王は、霊宝の威徳によつて、即座に退散して、御悩忽平癒した。天子御感深く、その他の家々にも名宝があらうと思はれて、宝比べを催されたところ、六条判官行重は上覧に供へるべき宝が無くて、面皮をかいて居たのを、清平が辱しめて、退座を強ひる。
判官には、五人の男子があつて、嫡子をよしながといふ。家に戻つて今日の恥辱の模様を話すと、よしながが父に讐討ちの法を教へる。其は、子はどんな宝も及ばない宝である。幸、二条蔵人には子が無いから、奏上して、子比べをして、恥をかゝせようと言ふのである。子福者の行重は、非常な面目を施した。御感のあまりよしながに、越後守を受領せしめられた。