義太夫と三味線
本文約840字 ・ 読了時間 約2分
あらすじ(AIが作成しました)
文楽の揉め事や山城少掾の謹厳さを巡る騒動を背景に、義太夫の弾き語りへの回帰と素人の義太夫育成の重要性を論じる。かつて長広や呂昇が示した弾き語りの清楚な姿を挙げ、太夫と三味線弾きの双方に互いの芸を習得するよう提言する。また、素人の義太夫を盛んにすることで、専門家の養成が困難な現在の文楽が抱える懸案を解決し、芸の向上と組織の安定を図るべきだと主張する。
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かう感情が荒びて来ては、たとひ今の間の折れ合ひはついても、又簡単に喧嘩別れの時が来る。文楽も揉みに揉んで、ちつとやそつとでは御破算にならぬ程、糶りつめてゐる。其に又今度の清六氏の事件である。山城少掾氏の謹厳は、我々始終感心してゐるのだが、芸の苦労にも、世間のつき合ひにも、あれで通して居るのだらうから、調子を揃へて行けない人も出て来るであらう。もつと大様になつてくれたら、第一あの立派な芸が更に自在境にゐるだらうと思うてゐる。今度の事が、曲りなりにでも無事にをさまつたら、山城氏はじめ太夫さんたちに考へてほしいことが一つある。其はどうせ義太夫には弾き語りの時期が来るだらうといふことである。そんなしみたれ(貧弱)た女義太夫見たいなことが出来るものかと馬鹿にする人もあるだらうが、いつそさうなつたら、摩擦の一角でもなくなると言ふものである。長広や呂昇が、一人で高座を勤めてゐた弾き語りの姿を浮べて見る記憶は、極めて清楚なものである。三味線弾きは弾くのが本業か、義太夫を教へるのが本業かと思はれるほど、一人として義太夫の語れぬ人はない筈だ。太夫たちも三味線の弾けぬ太夫なんて言ふのはないのである。山城氏なども、此際弾き語りも時々して見ると言ふ風に腹を締めてかゝつて貰ひたい。三味線の方の方がたも舞台以外に、此まで以上に出来るだけ素人義太夫をしたてゝ貰ひたい。何と言つても、本職の太夫の外に、素人が十重二十重にとり捲いてゐて、其が此浄瑠璃を盛んにしたのだから、素人の芸を高めると言ふことは、意味の深いしごとである。素人の中から偉大なばけもの――素人からくろうとに飛躍した義太夫――の出る希望はまだ、十分あるのである。呂昇はともかく、長広などは弾き語りで、よい加減な太夫の及ばぬ芸を聴かせたのだ。此問題が解決すれば、大きな文楽経済や人物の上の懸案が、一部は消えるのである。何しろ三味線専門家の養成が、一等むつかしい今の有様なのだから、かう言ふ側からでも、文楽をよくして行く方へ向ひたいものです。
完