河霧
本文約7,500字 ・ 読了時間 約15分
あらすじ(AIが作成しました)
二十年ぶりに故郷の城下町へ帰還した上田豊吉は、かつて自身の将来を予言した老人・並木善兵衛が眠る地で、私塾の設立に奔走する。しかし、精根尽き果てた豊吉は、かつての友人や故郷の風景と再会しながらも、心に深い疲労を感じていた。ある夜、月明かりの下で河へと向かった彼は、小舟を漕ぎ出し、霧が漂う水面へと深く分け入っていく。本書は、郷愁と喪失感の中で自身の人生を静かに終わらせようとする男の姿を描く。
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上田豊吉がその故郷を出たのは今よりおおよそ二十年ばかり前のことであった。
その時かれは二十二歳であったが、郷党みな彼が前途の成功を卜してその門出を祝した。
『大いなる事業』ちょう言葉の宮の壮麗しき台を金色の霧の裡に描いて、かれはその古き城下を立ち出で、大阪京都をも見ないで直ちに東京へ乗り込んだ。
故郷の朋友親籍兄弟、みなその安着の報を得て祝し、さらにかれが成功を語り合った。
しかるに、ただ一人、『杉の杜のひげ』とあだ名せられて本名は並木善兵衛という老人のみが次のごとくに言った。
『豊吉が何をしでかすものぞ、五年十年のうちにはきっと蒼くなって帰って来るから見ていろ。』
『なぜ?』その席にいた豊吉の友が問うた。
老人は例の雪のような髭髯をひねくりながらさみしそうに悲しそうに、意地のわるそうに笑ったばかりで何とも答えなかった。
そこで少しばかりこの老人の事を話して置くが、「杉の杜のひげ」と言われてその名が通っているだけ、岩――のものでそのころこの奇体な老人を知らぬ者はないほどであった。
髭髯が雪のように白いところからそのあだ名を得たとはいうものの小さなきたならしい老人で、そのころ七十いくつとかでもすこぶる強壮なこつこつした体格であった。
この老人がその小さな丸い目を杉の杜の薄暗い陰でビカビカ輝らせて、黙って立っているのを見るとだれも薄気味の悪い老翁だと思う、それが老翁ばかりでなく「杉の杜」というのが、岩――の士族屋敷ではこの「ひげ」の生まれない前のもっと前からすでに気味の悪いところになっているので幾百年かたって今はその根方の周囲五抱えもある一本の杉が並木善兵衛の屋敷の隅に聳ッ立ッていてそこがさびしい四辻になっている。
善兵衛は若い時分から口の悪い男で、少し変物で右左を間違えて言う仲間の一人であったが、年を取るとよけいに口が悪くなった。