再び歌よみに与ふる書
本文約1,700字 ・ 読了時間 約4分
あらすじ(AIが作成しました)
紀貫之や古今和歌集を崇拝する当時の歌壇の風潮を批判し、日本の歌の停滞を論じる。本書は、古今和歌集を無趣味な理屈に過ぎないと断じ、それを模倣し続ける後世の歌人たちの不見識を糾弾する。また、定家や香川景樹の歌風を独自の視点で分析し、古典の門閥化や形式主義に陥った技芸がもたらす腐敗を指摘する。先入観を捨て、広い視野で古今の文学を比較することの重要性を説く。
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貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候。其貫之や古今集を崇拝するは誠に気の知れぬことなどと申すものゝ実は斯く申す生も数年前迄は古今集崇拝の一人にて候ひしかば今日世人が古今集を崇拝する気味合は能く存申候。崇拝して居る間は誠に歌といふものは優美にて古今集は殊に其粋を抜きたる者とのみ存候ひしも三年の恋一朝にさめて見ればあんな意気地の無い女に今迄ばかされて居つた事かとくやしくも腹立たしく相成候。先づ古今集といふ書を取りて第一枚を開くと直に「去年とやいはん今年とやいはん」といふ歌が出て来る実に呆れ返つた無趣味の歌に有之候。日本人と外国人との合の子を日本人とや申さん外国人とや申さんとしやれたると同じ事にてしやれにもならぬつまらぬ歌に候。此外の歌とても大同小異にて佗洒落か理窟ッぽい者のみに有之候。それでも強ひて古今集をほめて言はゞつまらぬ歌ながら万葉以外に一風を成したる処は取餌にて如何なる者にても始めての者は珍らしく覚え申候。只之を真似るをのみ芸とする後世の奴こそ気の知れぬ奴には候なれ。それも十年か二十年の事なら兎も角も二百年たつても三百年たつても其糟粕を嘗めて居る不見識には驚き入候。何代集の彼ン代集のと申しても皆古今の糟粕の糟粕の糟粕の糟粕ばかりに御座候。
貫之とても同じ事に候。歌らしき歌は一首も相見え不申候。嘗て或る人に斯く申し候処其人が「川風寒く千鳥鳴くなり」の歌は如何にやと申され閉口致候。此歌ばかりは趣味ある面白き歌に候。併し外にはこれ位のもの一首もあるまじく候。「空に知られぬ雪」とは佗洒落にて候。「人はいざ心もしらず」とは浅はかなる言ひざまと存候。但貫之は始めて箇様な事を申候者にて古人の糟粕にては無之候。詩にて申候へば古今集時代は宋時代にもたぐへ申すべく俗気紛々と致し居候処は迚も唐詩とくらぶべくも無之候得共さりとて其を宋の特色として見れば全体の上より変化あるも面白く宋はそれにてよろしく候ひなん。それを本尊にして人の短所を真似る寛政以後の詩人は善き笑ひ者に御座候。