道化役
本文約21,100字 ・ 読了時間 約43分
あらすじ(AIが作成しました)
川蒸汽の中で島村陽一は、一年前に忽然と姿を消した村尾庄司と再会する。村尾はかつて、婚約者・信子の身体的特徴に嫌悪感を抱き、芸妓との自堕落な生活に溺れるなど、自身の醜悪な内面に苦悩し自らの人生を道化芝居のように感じていた。現在、別の男性の手引きで印刷業を営む村尾は、過去の屈折した感情を清算し、新たな生活を送っている。本書は、村尾の手記と島村の視点を通じ、自己の真実を見失った男の再生の物語を描く。
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村尾庄司が突然行方をくらましてから、一年ほどたって、島村陽一は意外なところで彼に出会った。島村は大川を上下する小さな客船が好きで、むかし一銭蒸汽と云われていた頃には、わざわざ散歩の途をその船の中まで延したこともあるし、近頃でも、たまに何かの機会があると、少し廻り道をしても乗ってみた。街路が舗装で固められ、建物が直角の肩を並べ、交通機関が速力を増してくる、その中にあって、商家のお上さんや番頭などをのせ、川波にゆられながらのろのろと走る小蒸汽は、都市の煉瓦や石やコンクリートの中に穿たれてる一種の通風孔みたいに思われるのだ。殊に夕方がよかった。太陽は建築物の肩に隠れて、その残照が明るく河面に漂い、油をぬったような空と水との反映を受けて、微妙な紫じみた雰囲気をかもし出し、両岸の家々は平面がぼやけ、輪廓だけがくっきりと際立ち、泊りを求めて帰る大きな荷足船の中からは、細そり煙が立っている。そういう時、船体全部に響くこの小蒸汽の機関の音は、何かしら小気味よい笑いのように聞えた。永代橋のたもとからこれに乗りこんだ島村は、久しぶりの楽しい気持で、暫く外に立って眺めていたが、二つばかりの橋の下をくぐると、いかめしい鉄骨の橋架に頭を押えられる気がして、船室の中にはいった。客がまばらで、ひっそりしていた。片隅の腰掛にかけて、うす汚れのした硝子窓から覗くと、船はすぐ河岸近くを進んでいたので、広い眺望を求めて反対側に席を移そうとした時、向うの、子供を膝に抱いてる女の先に、こちらを見ていたらしい顔をそむけて、水面に視線を落してる男の姿が、眼にとまった。黒いソフトをまぶかにかぶって、窓によりかかるようにしてるその横顔が、どう見ても村尾だった。島村は物にこだわらない呑気な性質から、一年間の年月も種々な事件もとびこして、その方へ歩み寄っていった。数歩のところで、村尾は彼を意識していたようにひょいと顔をあげて、彼の方を見た。彼はそれを笑顔で迎えた。
「やあ、暫くだね。」