石の思ひ
本文約15,200字 ・ 読了時間 約31分
あらすじ(AIが作成しました)
政治家でありながら家庭を顧みず、墨を磨かせる以外に交流のなかった父と、貧困や継母との軋轢に苦しむ少年時代の記憶を綴る。執筆者は、手のつけられない非行に走る自身の孤独を、同じく家で冷遇され、果ては家出して野垂れ死んだ従兄の白痴の姿に重ねる。死の瞬間に強風となって家へ戻ってきた従兄の魂の在り方を通じ、自身もまた死に際して愛憎入り混じる家へ戻らざるを得ない宿命と、そこにある魂の救いようのない切なさを描き出す随筆である。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
💰 この本を応援する(投げ銭)
私の父は私の十八の年(丁度東京の大地震の秋であつたが)に死んだのだから父と子との交渉が相当あつてもよい筈なのだが、何もない。私は十三人もある兄弟(尤も妾の子もある)の末男で下に妹が一人あるだけ父とは全く年齢が違ふ。だから私の友人達が子供と二十五か三十しか違はないので子供達と友達みたいに話をしてゐるのを見ると変な気がするので、私と父にはさういふ記憶が全くない。
私の父は二三流ぐらゐの政治家で、つまり田舎政治家とでも称する人種で、十ぺんぐらゐ代議士に当選して地方の支部長といふやうなもの、中央ではあまり名前の知られてゐない人物であつた。しかし、かういふ人物は極度に多忙なのであらう。家にゐるなどといふことはめつたにない。ところが私の親父は半面森春涛門下の漢詩人で晩年には「北越詩話」といふ本を三十年もかゝつて書いてをり、家にゐるときは書斎にこもつたきり顔をだすことがなく、私が父を見るのは墨をすらされる時だけであつた。女中が旦那様がお呼びですといつて私を呼びにくる、用件は分つてゐるのだ、墨をするのにきまつてゐる。父はニコリともしない、こぼしたりすると苛々怒るだけである。私はたゞ癪にさはつてゐたゞけだ。女中がたくさんゐるのに、なんのために私が墨をすらなければならないのか。その父とは私に墨をすらせる以外に何の交渉関係もない他人であり、その外の場所では年中顔を見るといふこともなかつた。