千人針
本文約1,800字 ・ 読了時間 約4分
あらすじ(AIが作成しました)
昭和初期の街頭で流行した、出征兵士の武運を祈る千人針について綴る随筆。著者はこれを害のない純粋に日本的な習俗と捉え、迷信を批判する人々に疑問を呈する。実体験を交えながら、一針に込められた人々の情や、縫製に要する時間、街での人々の交流を描き出す。その上で、真に恐るべきは国を危うくするような別の迷信ではないかと問いかけ、国民に沈着な反省を促す。
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去年の暮から春へかけて、欠食児童のための女学生募金や、メガフォン入りの男学生の出征兵士や軍馬のための募金が流行したが、これらはいつの間にか下火になった。そうしてこの頃では到る処の街頭で千人針の寄進が行われている。これは男子には関係のないだけに、街頭は街頭でも、何となくしめやかにしとやかに行われている。それだけに救世軍の鍋などとはよほどちがった感じを傍観者に与えるものである。如何にも兵隊さんの細君らしい人などが赤ん坊を負ぶっているのに針を通してやっている人がやはり同じ階級らしいおばさんや娘さんらしい人であったりすると実に物事が自然で着実でどうにも悪い心持のしようがない。そうした事柄が如何にも純粋に日本的だという気がするのである。迷信だと云ってけなす人もあるが、たとえ迷信だとしてもこれらはよほどたちのいい迷信である。どの途迷信は人間にはつきものであって、これのない人はどこにもない。科学者には科学上の迷信があり、思想家には思想上の迷信がある。迷信でたちの悪いのは国を亡し民族を危うくするのもあり、あるいは親子兄弟を泣かせ終には我身を滅ぼすのがいくらでもある。しかし千人針にはそんな害毒を流す恐れは毛頭なさそうである。戦地の寒空の塹壕の中で生きる死ぬるの瀬戸際に立つ人にとっては、たった一片の布片とは云え、一針一針の赤糸に籠められた心尽しの身に沁みない日本人はまず少ないであろう。どうせ死ぬにしてもこの布片をもって死ぬ方が、もたずに死ぬよりも心淋しさの程度にいくらかのちがいがありはしないかと思われる。戦争でなくても、これだけの心尽くしの布片を着込んで出で立って行けば、勝負事なら勝味が付くだろうし、例えば入学試験でもきっと成績が一割方よくなるであろう。務め人なら務めの仕事の能率が上がるであろう。