TRENDIA CLASSIC

頑執妄排の弊

北村透谷

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宇宙を観察するの途二あり、一は宇宙を「死躰」として観るにあり、他は宇宙を「生躰」として観るにあり、人生を観察するの途二あり、一は人生を今世に限られたるものとして観るにあり、他は人生を未来に亘るものとして観るにあり。爰に於て吾人は知る、人間世に処するの途は、現在に希望を置くと、未来に希望を置くとの二岐に分るゝあるのみ。更に去つて歴史を観るに、盛衰興亡の端多く、一去一来の跡空しきも、之を要するに、歴史の中心潮は、未来の希望を現実に適用するにあるのみ。悠々たる天と、々たる地の間に孰れの所にか墳墓なる者あらんや、其の之あるは、人間の自から造れる者なり、国民の自から造れる者なり。印度自から其墳墓に埋もれたり、羅馬自ら其墳墓に沈みたり、彼等は去れり、然れども彼等を葬りし墳墓は彼等と共に其影を撤したり、天下孰れの処にか墳墓なる者あらんや、世界は墳墓に赴くにあらず、頭を挙げて蛇行するが如き此世界は、遂に「生命」に達すべき者なり。「記憶」渠唯だ記憶のみ、「過去」渠唯だ過去のみ、「未来」には権あり、「希望」には命あり。

過去現在未来は全宇宙の所有物にして、人間の私有にあらず、時間と空間は人間を、或る立塲に繋げども、人間は過、現、未、の中心に立つて動く者にあらず。然りと雖、宇宙の人間に対するは蛇の蛙に於けるが如くなるにあらず、人間も亦た宇宙の一部分なり、人間も亦た遠心、求心の二引力の持主なり、又た二引力の臣僕なり。魚市に喧囂せる小民、彼も亦た宇宙に対する運命に洩れざるなり、彼も亦た彼の部分を以て、宇宙を支配しつゝあるものなり、この観を以てすれば、王侯将相と彼との間に何の径庭あらんや。

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