処女の純潔を論ず
本文約5,200字 ・ 読了時間 約11分
あらすじ(AIが作成しました)
曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』に登場する伏姫を中心に、人間界における純潔の価値と作品の哲学的側面を論じる。本書は、父の義実が放った一言がもたらす宿命と、伏姫が妖犬八房と山中で過ごす過程で示される因果の理法を考察する。悪や煩悩と対峙しながらも、最後まで自身の純潔を守り抜く伏姫の姿を通じて、作家が描いた因果応報や道徳の極致を明らかにし、この高潔な精神こそが物語を輝かせる真髄であることを説く。
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天地愛好すべき者多し、而して尤も愛好すべきは処女の純潔なるかな。もし黄金、瑠璃、真珠を尊としとせば、処女の純潔は人界に於ける黄金、瑠璃、真珠なり。もし人生を汚濁穢染の土とせば、処女の純潔は燈明の暗牢に向ふが如しと言はむ、もし世路を荊棘の埋むところとせば、処女の純潔は無害無痍にして荊中に点ずる百合花とや言はむ、われ語を極めて我が愛好するものを嘉賞せんとすれども、人間の言語恐らくは此至宝を形容し尽くすこと能はざるべし。噫人生を厭悪するも厭悪せざるも、誰か処女の純潔に遭ふて欣楽せざるものあらむ。
然れども我はわが文学の為に苦しむこと久し。悲しくも我が文学の祖先は、処女の純潔を尊とむことを知らず。徳川氏時代の戯作家は言へば更なり、古への歌人も、また彼の霊妙なる厭世思想家等も、遂に処女の純潔を尊むに至らず、千載の孤客をして批評の筆硯に対して先づ血涙一滴たらしむ、嗚呼、処女の純潔に対して端然として襟を正うする作家、遂に我が文界に望むべからざるか。
夫れ高尚なる恋愛は、其源を無染無汚の純潔に置くなり。純潔より恋愛に進む時に至道に叶へる順序あり、然れども始めより純潔なきの恋愛は、飄漾として浪に浮かるゝ肉愛なり、何の価直なく、何の美観なし。
わが国の文学史中に偉大なる理想家なしとは、十指の差すところなり。近世のローマンサーなる曲亭馬琴に至りては批評家の月旦甚だ区々たり、われも今卒かに彼を論評する事を欲せず。細論は後日を期しつ、試みに彼が一代の傑作たる富山の奥の伏姫を観察して見む。ロマンチック・アイデアリストとしての馬琴の一端は、之を以て窺ひ知るを得んか。