自警録
本文約167,500字 ・ 読了時間 約335分
あらすじ(AIが作成しました)
道徳は一部の専門家のものではなく、日々の言行に反映させるべき凡人の平穏な道であると論じる。日常生活における精神の態度こそが最も重要であり、平素の修養を怠らなければ、大々的な煩悶に際しても容易に解決できると説く。また、人は神と獣の間に位置し、夢すらも日頃の意識の鏡として修養の糧となり得ると説き、不断の自己鍛錬を通じてより高き境遇へ至るための日々の心得を綴る。
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芭蕉ハ無クシテレ耳聞イテレ雷ヲ開キ
葵花ハ無クシテレ眼随イテレ日ニ転ズ
そめ色の山もなき世におのづから
柳はみどり花はくれなゐ
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序
とかく道徳とか仁義とかいえば、高尚遠大にして、通常人の及ばざるところ、たまたま及ぶことあれば、生涯に一度か二度あって、専門的に修むる者にあらざれば、単に茶話の料か、講義の題として聞くもののごとく思い流すの懼がある。もちろん道徳の思想は高尚、その道理は遠大であろう。しかしその効用と目的は日々の言行に現すほど、吾人の意識の中に浸み込ませるところにあると思う。古の賢人も道はここにありと教えた。なお賢人の曰うに、「言近くして旨遠きものは善言なり。守ること約にして施すこと博きものは善道なり。君子の言は帯より下らずして道存す」と。
これを思えば道すなわち道徳はその性高くしてその用低く、その来たるところ遠くして、その及ぼすところ広く、田夫野人も守り得るものであるらしい。
わが邦においては道徳に関する文字は漢語より成るもの多きがゆえに、学問なければ、道も修め得ぬ心地す。仁義礼智などとは斯道の人にあらざれば解し能わぬ倫理として、素人のあえて関せざる道理のごとくみなす風がある。これもそのはずであって、むかしは堅苦しき文字を借りて、聖人にも凡人にも共通なる考えを言い現す癖があった。これはただに儒学のみでなく、仏教においても同然で、今日もなお解き難き句あれば「珍聞漢」とか、あるいは「お経の様」なりという。また、かくのごときは独り本邦ばかりでない、西洋においても一時は解りきったことさえも、わざわざ自国の通用語を排してラテン語をもって、論説した時代もあった。薬も長きむずかしき名を付ければ効能多く聞こゆるの例によりて、ややもすると、今もこの弊に陥りやすい。