本文へ移動
TORENDIA

泉

本文約185,700字 ・ 読了時間 約372分

あらすじ(AIが作成しました)

北支の戦線から故郷の村へ帰還した元砲兵の黒岩万五は、立花伯爵の山荘を訪れ、伯爵の秘書である斎木素子と再会する。万五は山荘の管理や崖崩れの調査に奔走する一方、素子と交流を重ねる。物語は、自然豊かな高原の別荘地を舞台に、戦争を経て帰郷した男と都会から来た女性の交流、そして彼らを取り巻く生活の営みを描く。

岸田國士

🎧 まだ音声版はありません

リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。

💰 この本を応援する(投げ銭)

1 / 223

勇士黒岩万五の帰村

一

北支の戦線から一年半ぶりで故郷の村へ帰つて来た黒岩万五は、砲兵上等兵の軍服を思ひきりよく脱いで、素ツ裸に浅黄の腹掛けといふ昔どほりの恰好になつた。今日だけは麦藁帽が見つからず、しかたがない、当節誰でもがかぶつてゐる戦闘帽の星をもぎつたのをきちんと頭にのせて出た。

なにはともあれ、立花伯爵の山荘へ挨拶に行かねばならぬ。裏の木戸は押せば開く。勝手口には顔見知りの年寄りの女中が、朝の食事の支度をしてゐる。声をかけるのが面倒なので、そのまゝのこのこと庭の方へ廻つてみる。

と、丁度その時、ド、ド、ド、ドツと、地ひびきがして、何処かの崖が崩れる音がした。硝子戸がしばらくふるへた。

「なんでせう? また浅間の爆発かしら?」

と、奥から露台の方へ、手鏡をもつたまゝ飛び出して来た若い女性を、黒岩万五は、がつしりと、その鋭い視線で受けとめた。

「わしです。石屋の万五です。帰つて参りました」

息を呑んだまゝ立ちすくんでゐる彼女の、朝の化粧の清々しい瞼がまづこれに応へた。

「まあ、ちつとも変らないで……。でも、よかつたわ、ほんとに……」

「慰問袋を二度もいただいたに……一度しかお礼を出しませんで……」

「あら、四度よ、たしか……そいぢや、あとの二つはどつかへ紛れたんだわ」

「そいつはどうも……」

と、彼は頭へ手をのせ、改まつて、

「旦那はお変りございませんか」

旦那といふ言葉にいくぶんこだはるやうに、彼女は淋しく微笑んだ。

「伯爵は昨日急用がおできになつて、東京へお帰りになつたわ。えゝ、とてもお元気……。去年はあなたがゐないからつてお庭いぢりもなさらなかつたし……。つい、こないだよ、二人であなたのお噂したのは……」

岸田國士の他の作品

同じジャンルの朗読つきの本