本文へ移動
TORENDIA

緑の星

本文約13,800字 ・ 読了時間 約28分

あらすじ(AIが作成しました)

ある高原のホテルで女中頭を務める深草乃里は、二十数年前、欧洲航路の客船で過ごした一夜の記憶を抱え続けている。ある日、ホテルに男女一組の客が到着する。男の面影や言葉に、乃里は封印していた過去の記憶を呼び覚まされる。同じホテルで孤独な滞在を続ける相原夫人に、乃里は自身の胸の内を切々と打ち明ける。時を同じくして、到着した男もまた、過去の船上での出来事を思い起こしていた。

岸田國士

🎧 まだ音声版はありません

リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。

💰 この本を応援する(投げ銭)

1 / 17

ヨーロッパ通ひの船が印度洋をすぎて、例の紅海にさしかかると、そこではもう、太古以来の沙漠の風が吹き、日が沈む頃には、駱駝の背越しに、モーヴ色の空がはてしなくつづくのが見える。

その時、海の旅にあきた誰れかれの眼に、きまつて妖しく映るのは、地平線のうへに、次ぎから次ぎへと湧きでる、あの星ともいへぬ星、ひとつひとつが胸飾りのやうに鮮明な、エメラルドの星のまたたきである。

深草乃里は、二十何年か前の秋の航海で、その星の輝きがひとしほ眼の底に残つた、ある一夜の出来事を想ひ出してゐる。

どうして急にそんな記憶がよみがへつたか、もちろん、今日までそのことを、片時も忘れたことはないのだが、この日に限つて、彼女は、あの甲板の上で仰ぎみた真夜中の星の色を、まざまざと眼にうかべ、もう、六十に手のとどく皺だらけの頬に、われしらずぽつと血ののぼるのを感じた。

深草乃里は、現在、ある高原避暑地のホテルで、女中頭をつとめてゐる。若い頃から欧洲航路の客船で船室係をしてゐた経験が、船をおりてからもかういふ仕事をえらばせたのである。ずんぐりと肥つたからだに、丈長の黄色い毛糸のスエーターを着込んだ姿は、ホテルの客の眼をある意味でひいてゐた。年も年、どちらかといへば、大造りないかつい眼鼻だちで、そのうへ必要以上に取り澄ました表情が、機械的な動作とともに、およそ色気とは縁の遠い存在であつたが、ただ、ハイヒールの音を小刻みに響かせて、絶えずあちこちへ眼をくばつて歩き、事務的で、しかも、行き届いたサーヴィスぶりを、自分ながら得意にしてゐるらしい愛嬌は、旅慣れた客なら、年期を入れた女中頭のタイプだといふことがすぐにわかる。その上、ふだんはむつつりしてゐるかと思ふと、案外、気心の知れた滞在客などには、馬鹿丁寧な切口上で、聞きたくもない世間話をしかけることがある。

夏が過ぎると、客はぐつとへる。それでも、紅葉の頃には、団体の予約もあり、冬は冬で、スキイ場まではすこし遠いけれども、ここを足場に撰ぶ幾組かの若い泊り客がある。

岸田國士の他の作品

同じジャンルの朗読つきの本