記憶のいたづら
本文約9,600字 ・ 読了時間 約20分
あらすじ(AIが作成しました)
妻の順子が突然の陣痛に見舞われ、鈴村博志は近所の産婆・大野登志に助けを求める。無事に出産を終えた後、博志は登志の名前から幼少期の記憶を呼び起こす。かつて住んでいた名古屋の記憶と結びついた二人は、月日を経て思わぬ形で再会を果たした事実を知る。出産という人生の転機において、かつての少年と少女が時を超えて交差する様子と、その状況を静かに見守る妻の心情を描く。
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一
妻の順子が急に、
「どうも、怪しいわ。こんなに痛いはずないんですもの」
と、顔をしかめながら言ふのをきいて、鈴村博志は、今更のやうにギクリとした。
「だつて、予定は来月初めぢやないか。まだ二週間はたつぷりあるぜ」
「あたしもそのつもりだつたのよ。だから、なんにも用意なんかしてないわ。でも、病院へ行くひまあるかしら……。苦しい、とても苦しい」
さう言つたまゝ、妻の順子は、そこへ突つ伏してしまつた。
鈴村博志は途方にくれた。今すぐ病院へ電話をかけて、それで間に合ふかどうか? 医者が駈けつけて来るとしても、それまで自分ひとりでどうすればいゝのか?
「弱つたな。とにかく、しつかりしろよ。万一の用心に、そこの産婆にでも来てもらはう。病院へは、むろん連絡はするがね」
彼は、妻のために夜具を敷き、隣家の細君にちよつと声をかけておいて、ドテラ姿のまま家を飛びだした。
思へば迂闊な話である。結婚してから既に十五年、これが最初の経験ではなく、妻の順子は、三度身重になり、そのうち二度は流産といふあつけない結果であつただけに、こん度は大事をとつて、毎月医者に見せ、いよいよとなつたら入院する手筈をきめてゐたのである。
どちらかといふと、二人とも晩婚で、彼は三十二で、はじめて、家庭と名のつくものをもち、妻の順子は、二十六で、平凡な人生の伴侶を見つけたのである。事実、二人の間には、なにひとつロマンチックな思ひ出といふやうなものはなく、そのかはり、また、これといつて期待を裏切られたといふ悔いもなかつた。
彼は、B大学の専門部を出るとすぐ現在の製紙会社へはいり、勤続二十五年の功でやつと課長の椅子にすわると、彼女は、いつさいボーナスに手をつけない主義で、ひたすら老後の安泰を心掛けた。彼は、立身出世に見きりをつけ、たゞ周囲との円滑な交渉、妻と二人きりの生活の平和を念願として、人生の降り坂を悠々と歩いてゐた。そして、彼のこの心境をうつして、申し分なく内助の役を果してゐる妻の順子は、美貌とはいへないが、決して、ひからびた存在ではなく、明けて四十歳の今日、気分次第では、ひとり台所で「野ばらの歌」を口吟む若々しさをのこしてゐる。