一
妻の順子が急に、
「どうも、怪しいわ。こんなに痛いはずないんですもの」
と、顔をしかめながら言ふのをきいて、鈴村博志は、今更のやうにギクリとした。
「だつて、予定は来月初めぢやないか。まだ二週間はたつぷりあるぜ」
「あたしもそのつもりだつたのよ。だから、なんにも用意なんかしてないわ。でも、病院へ行くひまあるかしら……。苦しい、とても苦しい」
さう言つたまゝ、妻の順子は、そこへ突つ伏してしまつた。
鈴村博志は途方にくれた。今すぐ病院へ電話をかけて、それで間に合ふかどうか? 医者が駈けつけて来るとしても、それまで自分ひとりでどうすればいゝのか?
「弱つたな。とにかく、しつかりしろよ。万一の用心に、そこの産婆にでも来てもらはう。病院へは、むろん連絡はするがね」
彼は、妻のために夜具を敷き、隣家の細君にちよつと声をかけておいて、ドテラ姿のまま家を飛びだした。
思へば迂闊な話である。結婚してから既に十五年、これが最初の経験ではなく、妻の順子は、三度身重になり、そのうち二度は流産といふあつけない結果であつただけに、こん度は大事をとつて、毎月医者に見せ、いよいよとなつたら入院する手筈をきめてゐたのである。
どちらかといふと、二人とも晩婚で、彼は三十二で、はじめて、家庭と名のつくものをもち、妻の順子は、二十六で、平凡な人生の伴侶を見つけたのである。事実、二人の間には、なにひとつロマンチックな思ひ出といふやうなものはなく、そのかはり、また、これといつて期待を裏切られたといふ悔いもなかつた。
彼は、B大学の専門部を出るとすぐ現在の製紙会社へはいり、勤続二十五年の功でやつと課長の椅子にすわると、彼女は、いつさいボーナスに手をつけない主義で、ひたすら老後の安泰を心掛けた。彼は、立身出世に見きりをつけ、たゞ周囲との円滑な交渉、妻と二人きりの生活の平和を念願として、人生の降り坂を悠々と歩いてゐた。そして、彼のこの心境をうつして、申し分なく内助の役を果してゐる妻の順子は、美貌とはいへないが、決して、ひからびた存在ではなく、明けて四十歳の今日、気分次第では、ひとり台所で「野ばらの歌」を口吟む若々しさをのこしてゐる。