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TORENDIA

演劇一般講話

本文約47,700字 ・ 読了時間 約96分

あらすじ(AIが作成しました)

演劇を芸術として純化させるために不可欠な要素や、演劇の本質について論じる。音楽における楽譜と演奏の関係に倣い、演劇における脚本と演出の重要性を説く。さらに、俳優の技芸が独立性を保ちつつ、いかに脚本の価値が演劇全体の評価を左右するかを解説する。また、日本における現代劇の現状を分析し、写実的な基礎を固めることの重要性を主張しながら、演劇芸術の確立を目指す姿勢を綴る。

岸田國士

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演劇の芸術的純化

演劇は最も低級な芸術であるといふ言葉には、一面の真理があります。この言葉は――といふよりも此の事実は、近代の教養ある人士を劇場から遠ざけた。「芝居には行きますか――いゝえ――さう云ふわたしも行きません」――このマラルメの言葉は、殆ど、芸術を尊ぶものより送られた演劇への絶交状であります。

演劇とは何んぞやといふやうな議論も、随分古くから繰り返され、近代に至つて色々な美学的解説や、定義が下されるやうになりましたが、それは何れも机上の空論であつて、それならば、さういふ演劇がどこにあると云はれゝば、一句も吐けない。演劇は依然、文芸や美術音楽などゝ並んではゐるものゝ、常に面はゆげにその姉妹らの余光を仰いでゐるといふ有様だつたのです。

凡そ一つの芸術品が、芸術としての存在を主張し得るためには、創造者の霊感が、直接、そして純粋に、美の表現に到達してゐなければならない。そこには、平俗なる感情との妥協や、偶然が齎らす効果の期待などがあつてはならない。演劇は其の性質上、さういふ不純な、間接的な、動機に束縛され、左右され易い。或る程度まで、それが避けられない。そこから、演劇の芸術的存在が危ぶまれ、困難となるのではないか。かういふ立場から、演劇の芸術的純化を試みた最初の人が、誰も知るアンドレ・アントワアヌであります。

アントワアヌの事業、即ち自由劇場以後の運動については、後に述べることゝし、こゝでは演劇を形づくる諸原素が、如何なる状態と関係に於て演劇の芸術的堕落を導いたか、その問題について、一と通り研究して見ようと思ひます。

脚本について

演劇に於ける脚本の位置といふ問題は、今日まで殆ど異論がありません。たゞ一つ、ゴーヅン・クレイグの演劇論が、文学として存在する戯曲の運命を予言して、これを将来の舞台から駆逐しようとしてゐます。然し、これは一つの理想論であつて、今は問題にしなくともいゝ。然しこのことについては勿論、後に述べるつもりであります。

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