TRENDIA CLASSIC

新劇協会の舞台稽古

岸田國士

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初日の予定を変更して舞台稽古を見せた新劇協会――これはいろいろの意味で問題になる。が、それはそれとして、僕は、新劇協会が、新しい成長の第一歩――、毎月定期公演の第一回上演目録に、正宗白鳥氏作「人生の幸福」を選び、前回の成功と反響とに、劇団の来るべき運命を托さうとした、その企図を、悪意なく諒察することができる。

僕は、初めて、舞台にかけられた「人生の幸福」を観た。こゝで脚本の批評は見合せる。僕は非常に面白かつた。が、無条件に感服はできなかつた。

演出者の理解は、まづあそこまで行けば十分であらう。演出者が、何より大事なものを生かしてゐる――これは近来、珍らしいことである。作者と人物と俳優とが一体になつてゐる。一つの生命を呼吸してゐる。見事だ。

評論はやめる。もうその時機ではない。

岩野泡鳴作「閻魔の眼玉」――諷刺劇である。フアルスである。頭の鋭さは処々見える。機智が重苦しい。心理の陰影が稀薄だ。冗長な説明がうるさい。趣味が粗雑だ。凡庸な戯曲作家である。

演出上の工夫には、破綻がない。まづ綿密と云ふべきであらう。それ以上に出て、此の舞台から何が生れるか。

「人生の幸福」を小説家正宗白鳥氏に求めて成功し、「閻魔の眼玉」を再び小説家岩野泡鳴に求めて失敗した。名小説家、必ずしも名戯曲家ならずとの結論を引き出す前に、もう一度、「人生の幸福」一篇の「劇的本質」について、深く想ひを凝らす必要はないか。

初日、即ち最後の舞台稽古日には、武者小路氏作「張男の最後」はやれなかつた。見落して残念であるが、二度行く機会はなかつた。

新劇協会は、今日、われわれの有つ唯一の新劇上演機関である。築地小劇場が、外国劇の演出に特殊な努力を払ひつゝある間、われわれは、現代日本の生んだ新作戯曲を、同志会館の舞台以外では殆ど見ることができないのである。

僕が新劇協会の提灯をもつことは少しも不思議ではない。畑中氏は僕の知人である。

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