かういふ問題はどういふ範囲の人々に興味があるかわからぬが、本誌「トツプ」の読者は、映画の専門家でないにしても、相当高級映画フアンであらうと思ふし、さうなら、日本映画の優秀作が、西洋の普通の水準にまで達してゐないことを万々気付いてをられる筈であるから僕と一緒にひとつこの問題を考へていただきたい。
今はそんなことを実際に考へてゐる人は少なからうと思ふが、一時は、映画と演劇とを全く別個のもの、本質的に相容れないものとして、批評の標準を映画技術の専門的角度からのみ決定しようとしたことがある。これはむろん、芸術様式の純粋性を擁護し、発展させる立場から、常に何人かによつて続けられなければならない努力であるが、一方、現代日本のやうに、芸術の諸分野がそれぞれ孤立した領域に閉ぢ籠り、相互に望ましい影響を与へ合ふことなく、従つて、民衆の生活の中で、文化表現としての芸術的訓練が最も稀薄な状態に於いては、一芸術を他のそれより区別する運動よりも、一般芸術に共通なもの、民衆の趣味活動の基調をなすものを捉へることの方が、より急務であり、少くともより重大な意義をもつ事実なのである。
映画は、実にかういふ目的のためには誂へ向きの形式を具へてゐるのみならず、今日の実情から考へても、観衆の大多数は、意識するとしないとに拘はらず、映画に求めるものは映画そのものよりも寧ろ、映画に含まれ得る一切の「美しいもの」、「真実なもの」なのである。
これは少しも映画技術家を軽視することにはならないと思ふ。反対に、映画のかかる文化的使命を自覚し利用し得る一切の材料を駆使し、生活と芸術との微妙な切線を歩むことこそ、映画技術家の選ばれた才能なのである。
そこで、僕は、西洋映画の魅力を分析するに当つて、先づ以上の前置を掲げた次第であるが、問題の解決は常に根本を衝く必要がある以上、議論は少し抽象に亘る嫌ひはあつても、一応次に述べる事実について読者諸君の注意を喚起したいと思ふ。