批評家・作家・劇場人
本文約4,600字 ・ 読了時間 約10分
あらすじ(AIが作成しました)
小林、真船、千田の三氏による演劇論を読み、作者自身の演劇に対する傾向や考えを綴る。演劇の「文学性」と「劇場性」をめぐる議論を軸に、日本の新劇が抱える混乱や幼稚さ、劇作家の役割について論じる。特に、戯曲と舞台の距離や、俳優の表現能力を重視し、日本の演劇文化が現状の方向性のままでは不十分であると指摘する。現代演劇のあり方と、その水準を高めるための劇作家や俳優の課題について考察した一文。
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最後の締めくくりをする順番だが、以上、小林、真船、千田三氏の文章を読み了つて、先づ第一に感じたことは、僕自身のなかにある三つの傾向が、はつきり分裂して、次ぎ次ぎに「走り」出した姿に似てゐるといふことであつた。
ところが、これはなにも、僕に限らず、誰でも、創造のよろこびをよろこびとする芸術家として、一旦演劇といふ迷宮に入る以上、この三つの傾向が時により、場所に応じて頭をもたげて来るのではなかつたかと思ふ。
小林氏は、なるほど「演劇」の実際には関係のないやうな純粋な文芸批評家であるが、同時にこれが最も「現代の演劇」を語る有資格者なのであるといふ意味は、日本の演劇ぐらゐ、所謂「局外批評」の圏外で勝手な熱をあげてゐたものはないからである。
小林氏は、芝居が解る解らんといふ問題を第一に提出してゐるが、これは面白い。僕も亦、現代は、芝居を観ない人間が、最も芝居の解る人間だといふ逆説が通用しかかつてゐる時代だと思ふ。
小林氏はまた、歌舞伎を観て、「人間は形の美しさで十分に感動することができる」といふただ一つの真理を発見したと云つてゐながら、文楽を観た後、「本物の芝居など必要はない」と思ひ、「それまで自分が追つてゐたものは、演劇といふものではなかつた、とはつきり悟つた」さうだが、これはどういふものか? お説の通り、歌舞伎に限らず、芝居といふものの本質は「形」――「観念の文字通りの形象化」――眼と耳を通じて心に愬へる韻律の美に外ならぬので、この「形」の魅力は、氏が能楽によつて経験された「芝居小屋」の印象と深い関係がある。のみならず、氏が文学そのものとして評価するチェエホフの戯曲の美学であることを注意したい。
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「演劇とはなにをおいても先づ文学でなければならぬといふことが、近代劇の最大性格だと考へてよい」といふ小林氏の言葉は、真船氏の「今日、われわれの云ふ戯曲といふものは、あくまでも第一義の文学であつて、いかなる意味に於ても決して劇場台本ではない」といふ言葉と共通した意味――寧ろ信念を含んでゐる。