演劇と映画とは元来なら別々に論ぜられなければならぬ要素をそれぞれにもつてゐるのであるが、現在の日本では、この二つの部門が、その芸術的水準と文化的役割とに於いて、寧ろより多く共通な問題を含んでゐることを見逃してはならぬと思ふ。つまり、現代の日本演劇に最も欠けたものがあるとすれば、それは今日の日本映画に於いても同様に最も欠けたものなのである。
しかも、それは、専門批評家のみならず、一般国民が直接に感じながら、どうすることもできずにゐることなのである。つまり、その欠陥が現代演劇映画の根本的な「不健康性」を形づくり、他の芸術部門に比して、娯楽としても教養としても、現代の魅力ある生活表現となり得ない結果を招いてゐるのである。
その欠陥とは何かといへば、俳優の不足である。優れた教養と正しい演技能力と、必要な年齢と、社会的責任の自覚とを併せもつた俳優がゐないといふことは、勿論演劇映画を純然たる企業化した資本家の責任であるが、これを商業主義の利用に一任した国民全体の無定見にも罪があることはいふまでもない。が、更に重大なことは、新文化建設の途上にあるわが国の指導階級、殊に、政治家たちが「芸術と国民生活」の問題にまつたく無関心な態度を示してゐるといふ一事である。
なるほど検閲といふ制度はあるが、これはたゞ、当局が有害と信ずる部分を除去する手段であつて、それも、「芸術的作品」の有害無害は、如何なる標準に拠るべきであるかといふ考慮の下になされてはゐないのである。
例へば、風俗壊乱云々といふが如きも、勿論、趣旨として取締は必要であるが、風俗の由つて来るところを弁へなければ、影響の性質も範囲も断定し難いのである。現在の検閲制度とその方針なるものは、ヂヤーナリズムをあげての卑俗化と頽廃化を如何ともすることができないではないか。