「悲劇喜劇」の編輯者として
本文約2,600字 ・ 読了時間 約6分
あらすじ(AIが作成しました)
日本の新劇運動に新たな方向性を提示することを目指し、個人本位の姿勢を貫く演劇雑誌の創刊とその志を綴る。本書は、既存の演劇に退屈や不満を感じる層を主な読者と見なし、安易な娯楽性ではなく、厳格な批評精神と探求心を重視する。演劇をあらゆる芸術の出口となる迷宮と定義し、文学や美術など多角的な視点から演劇の本質を論じる。また、俳優の研究や劇場組織の分析を欠いた従来の新劇研究を批判し、読者が将来的に新劇運動の指導者となることを希求する。
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今日までかういふ種類の雑誌があつたかどうか、いはゆる「公器」としては、あまりに個人本位であり、いはゆる「同人雑誌」としては、あまりに門戸開放に過ぎると思はれる、一雑誌の存在は、当今、少しく時代錯誤の観がないでもないが、流行は必ずしも一世の識者を悉く眩惑し去るものではないと思ふから、私は、好んで自分の立場を守ることにした。
敢て野心的な言葉を弄するなら、私は、この雑誌によつて、日本の新劇運動に一つの新しい方向を与へようと思つてゐる。
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シエイクスピイヤの「翻案」とイプセンの「紹介」より出発した日本の新劇史は、少くとも結論に到達してゐる。
クレイグ、ラインハルトを経て意識構成派にミザンセエヌ(舞台構成)の理論は、徒らに写真師をしてマグネシウムをたかしめたに過ぎない。
その証拠に、われ/\の周囲は、われ/\の友人は、遂に劇場に足を向けることを断念してゐる。
かれ等はしかも活動写真だけ観る連中である。音楽会へなら行く連中である。勿論普通以上の読書家である。殊に戯曲全集は幾通りも取つてゐる連中である。
なぜ芝居を観に行かないか。答へは同じである。曰く「退屈だ」。曰く「観てゐて気の毒になる」。曰く「おれに演らせればもつとうまくやる」。
なるほど、さうかも知れない。私は、かれ等が呑気さうにわれ/\の仕事をこき卸すのを見て、少しは腹を立てるかといふと、決してさうではなく、却つてうれしくなるのである。なぜなら、かういふ人々こそ、頼母しいわれ/\の味方であるから。
私は先づ「悲劇喜劇」をかういふ人々に贈らうと思ふ。
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