ファルスの近代性
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あらすじ(AIが作成しました)
悲劇、喜劇、ファルスの三様式を階級的観点から考察しつつ、ファルスを喜劇の一部と捉える演劇論を綴る。おどけやきわどさといった道化味を主軸とするファルスが、かつての卑俗な形態から脱し、いかにして芸術的な生命感を備えた近代劇として昇華され得るかを論じる。社会劇万能の現代日本において、真に近代的な姿を備えたファルスが、将来的に演劇の舞台へ現れることへの期待を込めた批評である。
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井汲清治君の説によると、悲劇は貴族的、喜劇は中産階級的、そしてファルスは民衆的であるとのことである。
この観方も面白いし、ほぼ同感であるが、私が演劇の一様式としてこのファルスに興味をもつのは、必ずしも、さういふ「階級的」な意義によるのではない。
もともと、Farce を笑劇と訳すのは、Comdie を喜劇と訳すやうに、甚だ文学的でないやうに思はれるが、これも時代を経るに従つて、訳語の生硬さがなくなるであらう。
私は、今しばらく、ファルスを Comdie と対立させず、寧ろ Comdie の中に含ませる意見に従はうと思ふ。
即ち、一口に喜劇と呼ばれるやうな作品の中に、それが喜劇であるがために必要なエレメントを求めるとき、きつとファルスの「種」を拾ひ出すことがあるだらう。それと同時に、ファルスと銘打つた作品の中にも、一般に喜劇的と呼ばれる要素が、取り入れられてあるに違ひないのである。畢竟、喜劇は「笑劇的」な要素を主とせざる喜劇である、笑劇は、「笑劇的」な要素を主とする喜劇であるといひ得よう。
それなら「笑劇的」な要素とはどんなものかといへば、それは、先づ第一に、「道化味」である。「道化味」の本体は「おどけ」と「ざつくばらん」と「きはどさ」である。
ファルスが卑俗なもの、猥雑なものとされ易く、又実際、さうなりがちなのは、この「道化味」が、月並で、浅薄で、低調だからである。
ところが、かの、ラブレや、ヴィヨンや、スカロンや、シェイクスピイヤや、ゴオゴリや、カルデロンや、モリエエルや、これらの連中が、その数ある傑作の中に盛つた「ビュルレスク」は、時に取り澄ました紳士淑女の顔を赧らめしむることはあつても、決して、真実を悦ぶものを顰蹙せしめるやうなことはないのである。
例をもつと近く取れば、クウルトリイヌや、ロスタンや、ショオや、アイルランド作家の多くや、ジュウル・ロマンや、ベルナアルや、クロムランクやは、それぞれ、傑れた「道化味」をその劇的作品の中に取り入れて、見事成功してゐる。