ジュウル・ルナアル
本文約4,100字 ・ 読了時間 約9分
あらすじ(AIが作成しました)
劇作家ジュウル・ルナアルの芸術性を岸田國士が論じる。ルナアルは自ら「幻象」の猟人と称し、自然を愛しながらも現実を透徹した目で見る厭世的な詩人であった。本書は訳者による戯曲二篇「日々の麪包」と「別れも愉し」を収め、有閑階級や小産階級の男女が織りなす巴里生活の一端を提示する。併せて、自身の少年時代を投影し自叙伝的性格を持つ「赭毛」など、ルナアルが寡黙な人物を通して描いた繊細な心理喜劇の本質と、その背景にある社会状況を考察する。
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劇作家としてのジュウル・ルナアルを識る前に、詩人としての――芸術家としてのルナアルを識らなければならない。
彼は自ら称する如く、「幻象」の猟人である。自然を愛し、自然を味ひ、自然を呼吸しつつ、その全生涯を一種の厭世家として終始してゐる。
芸術家としてのルナアルの偉大さは、彼が聡明なペシミストであるが為に、ただそれが為に、屡凡庸な批評家を近づけない。
彼は叫ばない。彼は呟くのである。
彼は泣かない。彼は唇を噛むのである。
彼は笑はない。彼は小鼻を膨らますのである。
彼は教へない。目くばせをするのである。
彼は歌はない。溜息を吐くのである。
彼は怒らない。目をつぶるのである。
彼は生涯にたつた七篇の戯曲を書いた。何れも喜劇の部類に属すべきものである。彼をして舞台に興味をもたせたのは、その交友中に、エドモン・ロスタン、トリスタン・ベルナアル、リュシアン・ギイトリイ等がゐた為めに外ならぬが、それらの云はば余技的な作品が今日もなほ悠々たる舞台的生命を保つてゐる所以は、彼が生れながら既に、非凡なる戯曲作家の「息」をもつてゐたからであり、彼が何よりも先づ「魂の韻律」に敏感であつたからである。
彼は、自ら「自然によらなければ書かない」と宣言しながら、所謂自然主義者たるべく余りに現実の醜さを見透した。そして、その醜さを醜さとして描くためには、あまりに詩人であつた。
劇作家としてのルナアルは、愈古典作家として仏蘭西劇の雛壇に祭り上げられようとしてゐるが、彼の作品はまだそれほど老い込んではゐない。現代仏国の若き作家は、やうやくベックを離れてルナアルに就かうとさへしてゐるのである。イプセン、マアテルランク、ドストイエフスキイ、これら外国近代作家の影響の中で、わがルナアルは、静かに後進の道を指し示してゐるやうに思はれる。静かに――さうだ。彼の声は聴き取り難きまでに低い。しかし、耳を傾けるものは意外に多いことを注意すべきである。
私が訳した二篇は、自然を愛し、人間を嫌ふルナアルの、最も多くその人間に接触したであらう巴里生活の記録と見て差支へない。