TRENDIA CLASSIC

春日雑記

岸田國士

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去年の秋からどうもからだの調子がわるく、新聞の仕事があつたので、用心して入院したり転地したりした。

話をするとどうもいけない。それでなるべく人にも会はず、会つても向うにばかり話をさせておくといふ風で、これもなかなか骨の折れる修業である。

その間に、しかし、私は、偶然各方面の人々と識り合つた。どこでも同じと思ふが、人が寄れば必ず戦争の話である。それもいろいろな角度から、それぞれの現象をとらへて、めいめいの観察や批判を下すのであるが、案外、お互に人の知らないことを知つてゐるのに驚く。

ところで、私が最も奇怪に思ふのは、われわれは、その「知らない」ことを計算に入れずに、あれこれと判断めいたものを下してゐることである。

「すべてを知つてゐる」ものからみれば、それらの判断が噴飯に値するであらうことはまことに想像にあまりがある。

しかし、また一方、あることを「知つてゐる」から、その判断は常に正しいと云へないところもある。また、よくしたもので、「すべてを知る」といふことは、当の人間が信じてゐるほど容易なことではないのである。

原因と結果とをはつきりさせることは、最も単純にして、かつ、微妙な精神労作である。私は今日まで、この初歩的な論理を現実の面にあてはめて考へる必要のある時機は少いと思ふ。

なぜなら、世の風潮はすべて、この関係をさかさまにしようとしてゐるからである。

日支の紛争についても、まづ私は、その原因と称せられることがらが、果して、真に原因そのものなりや否やを疑つてゐる。私に云はせれば、それこそ今日の結果の最初の現れであり、原因は寧ろ、今日結果とみるところのものゝなかに厳として存在するのである。

両国の指導者はこゝに想ひ至らねば、永遠の和平など議する資格はない。

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