「美しい」ものを「美しい」と感じる心は誰にでもあるはずだが、「ほんたうに美しい」ものと「みかけだけ美しい」ものとの区別がつかなくなつてゐる人はずいぶん多い。それからまた、「美しい」といふことをはきちがへてゐる人、つまり「醜い」部類にはいるやうなものを何時のまにか好きになつてゐて、それが「美しい」のだと思ひこんでゐる人が、これまたなかなか少くないのである。
「ほんたうに美しい」ものを「美しい」と感じることができないのは、人間として非常に不仕合せであるばかりでなく、世の中がさういふ人たちのおかげでだんだん住み心地がわるくなり、さらに、さういふ人たちがのさばつてゐる国は戦争に負けなくても、外国の侮りを受け、精神的には対等の交際ができないことになる。
「美しさ」といふものは、いろいろなものにあり、眼に見えるものばかりでなく、耳に聞える音や声にもそれはある。「自然の美しさ」と云へば問題はないが、「人間の美しさ」となると、肉体の美しさよりも主として精神の美しさを云ふのである。
さて、われわれ日本人は、これまで「人間の美しさ」についてどういふ風に教へられて来たか? われわれ日本人の精神は、どういふ点でその「美しさ」を誇つてゐたか?
この反省は非常に大事な反省であるが、いまこゝで直接それに触れる暇はない。しかし、私はたゞ、これまであちこちでもてはやされた日本人好みの「美談」なるものの性質をぎんみしてみたいと思ふ。
新聞や雑誌が争つてかゝげる「感激美談」や、国民学校の教科書が教材としてあげてゐる「教訓美談」はいづれもといつていゝくらゐ、日本以外の国では「美しい話」として通用しがたいものばかりである。
どうしてさういふ結果になつたかといへば、これもせんぎをすると長くなるから、ごく簡単に云へば、日本人は、「人間」としての自覚がまだ足りないこと、国家と社会との関係をはつきり呑みこんでゐないことなどから来るのである。