四
書斎を転々と方々にうつしてゐる私を、あなたはおわらひになり、また放浪癖がはじまつたとおつしやるのですが、たしかに、さういふところもないではないでせう。しかし、ただそれだけのことと思つてくださつては困ります。すこし開き直つていへば、今の時代は、ひとところにゐて物をみることは不可能だといふことです。場所をかへたらどれだけ物がはつきりみえるか、といふことは、私が、静岡の町はづれに、上州の山村のさびれた避暑地に、それぞれいく月かを過して、たまに東京へ舞ひ戻つて来るといふただそれだけの生活を通して、なにか、今まで自分の視界から逃れてゐた時代の性格のいはば基底とでもいふべきものをつかみ得たやうな気がするのです。
時代の真の性格といふものは、決して一つの書斎の窓からのぞき得るものではなく、現在の新聞の社会記事のなかに浮び出てゐるものでもありません。そこになにかが映つてゐるとすれば、それはただ片鱗にすぎません。しかも、全体を問題にするならば、それらの片鱗は、しよせん見ても見なくてもよいものです。
こんなことはあなたにわざわざ申す必要のないことですが、まつたく今日ぐらゐ角度をかへて物を見なければならぬ時はなく、また、自分の精神の状態が判断を誤まらせ易い時期はないと思ひます。異常なことがすぐに普通のことになり、平凡なことがなにか重大な意味をもつやうにとられたりするのは、まことにそのためです。
例へば、あなたにとつてまことに奇怪千万で、しかも深刻な意味をもつものと思はれたあの集団見合ひなる現象は、いつたいなんでせう? あなたもおつしやるやうに、たしかにあれは「悲しいファース」に違ひありません。しかし、ああいふ現象は、それ自体として当代の青年男女の心理を端的に示したものでもなく、また、いはゆるつねに戦後の社会をおそふ結婚難の様相ともそれほど関係はなく、まして、日本の封建的因襲に逆らふ新しい風俗の発芽とみるわけにはいきません。