A(編集者) 先月、日本の俳優は、芝居するという目先のことにとらわれすぎて、演技にフクラミがない、というようなお話がありましたが、これはやはり歌舞伎なんかのやり方と関係があるでしようか……。
岸田 それはなくはないと思いますがね、でもあんまりないと思う。
A 歌舞伎の演技には、特殊の造型法みたいなものがあつて、演技者は中心点だけを非常にはつきりと押し出して来ますね。
岸田 そりや歌舞伎の役者が新劇をやるとそういう事になるかも知れないが……、西洋の芝居を勉強して来た演出家が演出した芝居が大体そうなつてきているね。これはやつぱり現代人の生活というものの観察のしかたが足りない所の方が大きくはないかと思う。そうして近代リアリズムというものの、日常性に結びついた魅力を深く掴んでいない結果だと思う。だから、些末主義に陥るとはいうけれど、実際は、リアリズムから、だんだんトリビアリズムに落ちこんで行つたという歴史が日本にはない。それはリアリズムというものの底をついて、デカダンスとしての些末主義じやなくて、リアリズムの上すべりをして安易にそこへ走つてしまつた些末主義だと思います。
A 例えば新劇の役者なんかで非常にうまくなつてくると新派に似て来るとか、歌舞伎に似て来ると言われますが、そういうのはどうでしよう。
岸田 それは、うつかりすると、役者に限らず一般日本人の中に偶然あるものの演劇的表現ですね。つまりわれわれの現在の生活、俳優の場合には役者としての生活がまだはつきり残つているんじやあないか、過去の俳優の生活から切り離されていません。それは劇団の中の雰囲気をみてもすでにわかりますね。いわゆる歌舞伎、新派と絶縁した雰囲気じやあない。
A 永く俳優をやつていると、演技をするということに慣れてしまつて、戯曲を素材として、新しい芸術作品を創り出すということから離れてしまう。……