福田恆存君の戯曲「キティ颱風」を読んで非常に面白かつた。
いろいろな先入観をもつてこの作品を読むひともあるだらうが、私もその一人であつたことを告白する。その第一は、福田君が自他ともにゆるす批評家であるといふこと、第二は、既に幾月か前に、甚だ風変りな戯曲「最後の切札」を発表し、いささか鬼面人を脅かすかの如き野心を示したこと、が、その理由として挙げられる。
私自身についていへば、福田君のチェエホフ論にはチェエホフの戯曲を最もよく理解するものゝ深い洞察があり、また「最後の切札」は、戯曲作家の皮肉な内省を主題とする「観念の舞台化」ともいふべき大胆な試みに少なからぬ興味を覚えたのであるが、そのことは、今度の「キティ颱風」を前にして、なにか意外なやうでもあり、また当然のやうでもある、不思議に混乱した感慨を催させる原因となつた。
福田君は、事実、「キティ颱風」に於ても、尋常でない意図をその作劇の上に示さうとしたことはたしかである。例へば、人物の関係をことさら複雑に入り組ませたり、事件の中心を次第にぼかし、絶えず何か起りさうで起らず、起りかけてはいつの間にか消える、言はゞ事件をはらむ雰囲気の波状形の起伏の連続のなかに、一群の人物の心理と行動とを絶えずダブらせながら暗示的に誘導するといふ、まつたく常識的なドラマの逆を行く手法を用ひてゐる。
しかしながら、これは別に、戯曲の本質を無視したり、前人未踏の試みを敢てした結果にはならず、可なりの抵抗を予想してゐた私の期待はいくぶん外れたが、それは残念でもない。却つて、事件の発展そのものに興味をつながせる通俗味を排して、真に「演劇的なモメント」を、活きた舞台の言葉と、時間のよどみなき経過のうちに求める、純粋な戯曲美の構成に作者がもつとも力を注いだといふ幸ひな一例をこゝに見たからである。