新しい演劇の芽は、どういふところに発生し、その芽はどうすれば健全に伸び育つかといふことを、私はこの二十年絶えず考へつゞけて来た。
理窟のうへでは、それはもうわかりきつた話なのだが、実際問題としては、どうにもならないところがあつて、日本の新劇は、その歴史がもう可なり長いといつてもいゝのに、思ふやうなかたちになかなかならない。さうして、今になつて、一番これはまたどうした、ことかと、われながら不思議に思ふことは、演劇といふ社会が、新しい運動を含めて、まつたくといつていゝほど、他のすべての社会、殊に、文学芸術のあらゆる分野から自然に孤立してしまふ傾向があるといふことである。
かりに私といふ一人の人間が、例へば、小説家にも詩人にも、美術家にも、音楽家にも、友人があり、それらの友人としばしば顔を合せてゐるとする。しかし、私は、それらの友人の誰一人にも、自分の書いた戯曲の上演を観てもらはうと思つたことはなく、また自発的に観に来てくれさうな友人はほとんどゐないといふのが事実である。
これはどういふことかといふと、私のさういふ友人たちは、そろひもそろつて、「芝居を観ない」のが普通のことになつてゐるからで、われわれもまた、さういふ人々にも観せられる芝居をやらうと心掛けてゐないからである。
ところが、一方では、さういふ人々に興味がありさうな芝居は、現在の観客層なるものには、とつつきにくいものではないかといふ、おそれを抱いてゐる向きもある。これもあながち無理とはいへないけれども、長い眼でみると、そもそも、演劇の新しい芽は、さういふ雰囲気のなかからは決して生れない。
そんなら、どうすればいゝかといふと、なんでもいゝから、さういふ連中を、無理にでも劇場に誘ひ出して、彼等もまた、芝居にとつて無縁な存在ではなく、気が向けば舞台をそれぞれの立場で利用し、演劇創造の喜びを味つてみようといふ興味と希望とを抱かしめるほかに手はないのである。