演劇について語るということは、演劇のある部分について語るということではない。
演劇がいろいろの要素から成っていることはたれにでもわかるが、それらの要素がどんな関係において組み合わされているか、ということは、専門の道にはいってみなければ容易にわからない。
演劇は総合芸術なりという説も、一応は成り立つけれども、文学、美術、音楽というような各種の芸術が、ただ、ある割合で混ぜ合わされているのではもちろんない。それらの芸術をいかに深くきわめていても、それだけで演劇はつくり出せないし、また、味わいつくせるものでもないのである。
こう考えてくると、演劇について正しい知識をうるためには、演劇の一つの窓から、その中をのぞくようなことをしないで、演劇全体のすがたを大きくつかんで、そこへはいっていくたしかな道を自分で捜すことが大切である。
つまり、演劇全体のすがたを、どういうふうに読者に印象づけたらいいか、それをまず私はくふうした。
そこで、六人の専門家によって、それぞれ、演劇の六つの見方を分担してもらう案をたてた。
この六つの見方によって、あらかじめ、演劇の正体なるものを誤りなく見とどけ、その上で、各自の好みによって「おもしろい芝居」を見、各自の才能に応じて、「舞台芸術の一分野」を開拓すればよいのである。
われわれは、手近にあるものを、偶然選ぶことで満足してはならないと思う。
演劇は、いつの時代でも、民衆の生活と欲求とを反映するものであるが、時として、それは、ゆがめられた政治や、卑俗な商業主義によって、民衆自身の真の希望を裏切るようなものに堕落する。民衆はしばしば「あるもので間に合わせる」習慣になじむところから、常にきびしい注文を持ち出すことを忘れてしまう。
日本の演劇の水準が、どの程度のものかということは、もちろん議論の余地はあるが、少なくとも現代人の生活に根をおろし、そこから健かに伸び育ったというものは、ごくわずかしかない。
演劇のほとんどすべてが、興行者の手中に握られているという状態も、おそらく、近代社会に類をみないところである。