TRENDIA CLASSIC

「道遠からん」あとがき

岸田國士

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この集におさめた戯曲三篇は、いづれもわたくしの最近の作品で、「速水女塾」以後のものである。

「女人渇仰」は昨年九月「文学界」に、「椎茸と雄弁」は今年一月「世界」に、「道遠からん」はこの六月「人間」に、それぞれ発表した。

わたくしは、自分の劇作といふ仕事を通じて、現代に於ける「喜劇」の存在理由をますます強く感じるやうになり、その精神の探究と形式の確立に、おぼつかない努力をこれまで払つて来た。その努力は今もつて実を結んだとはいへないけれども、どうやらひとつの方向だけは、これできまつたといふ気がする。必ずしもそれはまつたく新しい方向ではないかもしれない。しかし、わたくしは、わたくしの視角のなかにとらへ得たその方向を、もう見失つてはならない年齢なのである。

「喜劇」はまづなによりも、人間と時代とに対する深いかなしみから生れるものだといふことを、わたくしは信じる。かなしみがかなしみのまゝに終れば、それは、絶望に通じる。わたくしは、そこで立ち止まらないために、あらゆる鞭を自分に加へた。灰色のかなしみから、褐色の憤りが煙のやうにたちのぼるのを、自然の結果とみるほかはなかつた。だが、その時はじめて、自分のうちに、鬱積した「笑ひ」が出口を求めてやまないのを知つた。「喜劇」は、外になくして、内にあつたのである。

人世批判が諷刺のかたちをとつて喜劇を生むことも事実である。しかし、その事実はまた、批判者が批判に堪えなければならぬといふ意味を含んでゐる。しよせん、喜劇は他のすべての文学作品と同様、或はそれ以上に、鏡にうつる作者の像である。

まつたく空想の産物であるこれらの三篇は、偶然に、ある現実の一瞬からヒントを得たといふ点で、これまでのわたくしの作品のなかで、むしろ例の少いものである。

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