TRENDIA CLASSIC

熊と猪

沖野岩三郎

1 / 4

紀州の山奥に、佐次兵衛といふ炭焼がありました。五十の時、妻さんに死なれたので、たつた一人子の京内を伴れて、山の奥の奥に行つて、毎日々々木を伐つて、それを炭に焼いてゐました。或日の事京内は此んな事を言ひ出したのです。

「お父さん、俺アもう此んな山奥に居るのは嫌だ。今日から里へ帰る。」

「そんな馬鹿を言ふものぢやあ無い。お前が里へ出て行つたなら、俺は一人ぼつちになるぢやないか。」と言つて佐次兵衛は京内を叱りました。

「お父さんは一人でも宜いや、大人だもの。俺ア子供だから、里へ行つて皆なと鬼ごつこをして遊びたい。」

「そんな気儘を言ふものぢや無い。さ、私と一緒に木を伐りに行かう。」

佐次兵衛は京内の手を取つて、引張つて行かうとしました。

「嫌だ、やだ! お父さんは一人で行け。俺は里へ遊びに行く!」と言つて京内はドン/\と、山路を麓の方へ駈けて行きました。

「おい、こりや、それは親不幸といふものだぞ!」

「不孝でもコーコーでも宜いや、里へ行つて遊ぶんだ。」

京内は一生懸命に駈け出したので、佐次兵衛も捨てゝ置けず、お弁当を背負つたまゝ、パタ/\と其の後を追かけました。

山の上には、大きな熊が木の枝に臥床を作つて、其所で可愛い可愛い黒ちやん=人間なら赤ちやん=を育てゝ居ました。

「さ、オツパイ! オツパイお食り、賢いね黒ちやん。」

熊のおツ母さんは黒ちやんの頭を舐めてやりました。

「オツパイ嫌よ。もつと/\旨しいもの頂戴な。」

「オツパイが一番旨しいのよ、ね、駄々を捏ねないで、さ、お食り……」

「嫌だつて云ふのに、オツパイなんか飲ませたら、おツ母さんの乳頸を噛み切つてやるぞ。」

熊は黒ちやんでも、なか/\悪口は達者と見えます。

「アイタタ、まあひどいのネ此の児は。母ちやんのお乳から、こんなに血が出るぢやないの。」

お母さんは、ちよいと睨む真似をしました。

「お乳は嫌、もつと/\旨しいもの頂戴。」

「そんな無理を、お言ひで無い。それは親不幸といふものです。」

「不幸でもコーコーでも宜いワ。もつと旨しいもの食べさしてお呉れ、え、おツ母さん。」

「仕様が無いね。此の子は、」とおツ母さんは暫く考へてゐましたが、

沖野岩三郎の他の作品