日本橋
本文約10,100字 ・ 読了時間 約21分
あらすじ(AIが作成しました)
八日間の日本橋滞在を計画した「私」は、記念帳を購入し、道中で出会う知人や友人から署名を収集する旅に出る。デパートの昇降機の運行速度に執着する工学士や、かつての知人であるテル子らとの交流を通じ、都市の変容や自身の過去の記憶を辿る。本書は、旅先での見聞と人間模様、そして失われた日常の断片を記録する物語を描く。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
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一
(第一日)快晴――私は八時に起床して、いでたちをとゝのへ、首途の乾杯を挙げ、靴を光らせ、そして妻の腕を執り、口笛の、お江戸日本橋――の吹奏に歩調を合せながら、この武者修業のテープを切つた。麗かな朝陽のなかには、もう春の気合ひが感ぜられる。
これから旅へ向はうとする気色ばんだ汽関車、終夜の旅を終へて眠りの庫に入らうとする車達の入り乱れた響きを脚下に感じながら八重洲口へ向ふ長い歩廊の窓から、さて私が、これから八日の間、見聞の眼を虎のやうに視張つて訪問する筈の、お江戸日本橋の空と甍を眺めると私の胸は、恰も長い航海の後に見知らぬ国に着いたかのやうにときめいた。私は、予定の如く書店丸善へ先づ赴かなければならないのだ。予定とは? 私は、その店で一部のバースデイ・ブツクを買ふつもりなのである。そして私はこの稿のためにこの街を訪れる限り、そこで出遇つた紳士淑女に、いち/\これを突きつけて、夫々のその栄ある誕生日の日附けの下に親愛なる署名を乞はう――と計画したのである。そして私は、その冊子を記念として永く蓄へ、また、この行程の終つた節に、きらびやかな贈り物をしよう――と、妙な計画をたてたのである。
だから私は、誰とも言葉を交へぬうちに記念帳を買つてしまはなければならなかつたから、改札口を出るかいなや伴れの者の腕を執つたまゝ傍眼も触れずに丸善へ駆けつけたのである。が、私が、中将湯の前に来かゝつた時である。背後から私の名を呼ぶ者があつた。――見ると、真新しい黒オーバをまとつた銀行員風の若い紳士である。知らぬ人だ。
「やつぱし貴方だつた。私は、電車の中からそれとなく後をつけて来たんだが、お伴れがあるし、それに歩き方と胸の張り具合が何うも貴方らしくなくも思はれたので……」
など、彼が長い前置をしてゐるうちに、その微笑の度毎に現はれる八重歯で、私は突然少年の彼を思ひ出した。
「やあ、栄吉君!」