訣れも愉し
本文約4,600字 ・ 読了時間 約10分
あらすじ(AIが作成しました)
自身を見失っていた「私」は、同じく激しい精神的苦境にあった知人・太郎と、その恋人・お花を巡る愛憎の過程を傍観する。お花との関係に疲弊した太郎と、理知的な恋愛を求めて苦しむお花の姿、そしてお花を案じる母親との交流を通じて、私は自身の落寞とした心と退屈を紛らわせる。やがてお花一家が大阪へ転居することになり、駅で見送る際、私は唐突に別れの場を放棄して去る。後を追った太郎と再び合流した瞬間、彼が私に見せた表情を私は一生忘れることができずにいる。
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私はあの頃の自分の心が良く分らない。色々のことを考へてゐた一聯の憂鬱な月日が遥かに思ひ出されるのであるが、どんなことを考へてゐたのやら、どんな気持でゐたのやら、それが失はれた夢の記憶を辿るやうでたよりないのだ。余り考へすぎたために其の考へが段々私自身から遠距かり、結局私はまるで私とは無関係な考へをあの頃思ひつめてゐたのだらう。私はあの頃よく街を歩いた。そして街毎の空気々々に別々の香気を感じ、さういふ匂の静かな秘密をつきぬけながら歩いてゐた。私は自分がなかつたのだ。そして私は太郎さんと太郎さんの恋愛のことを良く記憶してゐる。
いはば太郎さんも丁度私と同じやうにあの頃自分を失つてゐたのだらう。私は時々太郎さんの中に失はれた私自身を悲しく感じたりすることがあつた。けれども二人は余程違つてもゐたのである。つまり私があくまで静穏な気配の中で倦み疲れたやうにただ茫然と自分を失つてゐたのにひきかへ、彼は激しい暴風の中で自分を失つてゐた。
ある朝、あの人は追ひつめられた者の慌ただしい悲しさで私の部屋へ這入つてきて、生きる理由が分らなくなつたと言ひ、こんな滑稽なことを考へねばならない余儀ない気持は苦しいものだと言つたりしたが、呼吸でも苦しくなつたのかネクタイをちぎるやうに引きはづして椅子へ落込んだりした。
「太郎さん、君は恋をしてゐるくせに――」と私は笑ひながら言つた。
「そんな無駄を考へる時間がよくあるもんだね」
けれども他人の言葉はあの人の耳にはひらなかつたに相違ない。あの人は私の部屋へ訪れてきても、自分の言ふことだけを言ひ、自分の考へだけを追ひ、そして、時々うろ/\あたりを見廻したと思ふとふと坐る場所を変へたりした。私はふきだしたり欠伸をしたりしながら黙つて太郎さんを眺めてゐるのが面白かつた。