分裂的な感想
本文約1,600字 ・ 読了時間 約4分
あらすじ(AIが作成しました)
文学を個人にとっての宗教と捉える著者が、かつて印度哲学を学んだ経験や回教徒になる寸前まで傾倒した不可解な衝動を回想する。自身の心に漂う漠然としたノスタルジーと、肉体への関心という対照的な二つの影について綴る。文学活動を通じて分裂的な心の動きを統合しようと試み、組織的な手法から脱却し、新たな形式を模索していく過程を論じる。
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私にとつての文学は、いはゞ私個人だけの宗教であるかも知れない。もともと文学は、作家にとつてはその人個人の宗教のやうなものらしいが、それはとにかくとして、私は元来なんとなく宗教的な自分の体臭を感じることが多いのである。愉快ではない。
私は数年間印度哲学を勉強したが、もとより坊主にならうなぞといふ考へは毛頭なく、救ひを求めた切な心といふものも思ひ当らぬ。だいたい私は十六七の頃からすでに小説を書くことばかりを念頭においてゐて、小説家のほかのものにならうなぞと考へてはゐなかつたので、多分坊主にならうといふ考へもなかつたと思ふのだが、とにかく、今考へてもその原因が思ひ当らぬほどたゞ漠然と、恰も魔力にひかれるやうに仏教なぞを勉強した。原因不明ながら、ひところはひどく熱心に抹香臭い本を漁つて読んだ。ちつとも身につかなかつた。
私のかういふ出鱈目さ加減は、次のやうな出来事を回想してみると尚よく分る。やつぱり仏教を勉強してゐた頃のことだが、ある日一枚のビラを見た。回教の宣伝ビラで、トルコ政府か何かの後援のもとに、一ヶ年半アラビヤ語とトルコ語を教へるが、但しそこに学んだものは回教徒としてメッカ・メジナの巡礼にでかけなければならない、といふやうなものであつた。私はこのとき、もうすこしで回教徒になりかねないところだつた。コーラン一冊読んだわけではないのだから、教理なぞは勿論何一つ知識のないくせに、私の気持の大半はアラビヤの砂漠をこえ、メッカ・メジナへ辿らうとしてゐた。回教狂信者のアラビヤ巡礼といへば、日射病に倒れるものが無数で、累々たる死体を残して先へ先へと進むものだといふやうな話で、私も勿論、その中の死体の一つになつても、かまはないつもりであつた。理由も原因も、しかとしたものは全く思ひ当らない。たゞ私はもうすこしで回教徒になるところだつた。半年くらゐ思ひきり悪く考へつゞけてゐたのである。