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TORENDIA

神童でなかつたラムボオの詩

本文約820字 ・ 読了時間 約2分

あらすじ(AIが作成しました)

十五歳から十七歳の作品を集めた『学校時代の詩』を手がかりに、フランスの詩人ラムボオの少年時代を考察する。中原中也の訳詩を通して、早熟な芸術家でありながら神童ではなかった作者の素顔や、のちの荒々しい文学的探究へとつながる平凡な感性を論じる。

坂口安吾

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🎧 神童でなかつたラムボオの詩 / 朗読音声: VOICEVOX:玄野武宏

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私は中原が訳すまで、ラムボオに『学校時代の詩』といふもののあることを知らなかつた。仏蘭西の全集には載つてゐないものである。日本流に数へて十五歳から十七歳までの作品らしい。

私は今までラムボオは神童だつたに違ひないと考へてゐたが、この詩集を読んでみると私の考へがまちがつてゐたことに気付いた。大人びたところがまるでない。その上、神童らしい神童の鋭さもない。だから後年やや長じて、ひとたび懐疑の真底へぶつかるや、まつさかさまに地獄へ墜落していつた荒々しいのたうちが尚よく分つた気がした。実を言ふと、私は神童なぞは凡そ面白くもないのである。

此の詩集の時代のラムボオは平凡な少年詩人だつたと言つていい。これは悪い意味に言つてゐるのではなく、寧ろ後年の振幅を理解させるに充分なほど大きな平凡であつたとの意である。十五歳の詩は全く十五歳の感傷に終始してゐるし、十六歳の最初の詩は甚だ厭世的であるけれども、それは形が厭世的であるだけで深さも鋭さも全く十六歳の少年そのものである。鋭い狙ひもない。いはば彼のこの時代は少年詩人的な好奇心がすばらしく旺盛であるだけである。感覚も平凡であるし神経はむしろ鈍い。いはば形でこしらへた贋物といつていいが、あらゆる点に於て贋物の形が大きい。贋物としては本格的である。従而、やがて後年ひとたび真実の形にはいると、全身をもつて物の真底にふれ懊悩しだした麒麟児の姿がハッキリ分るやうに思ふのである。神経の細い鋭さではなしに、いきなり全部的に投げ込むやうに物の奥底へふれていつた荒々しいのたうちが分るのである。ラムボオは十八歳頃からそろ/\大人になつたのであらう。いはば早熱な芸術家ではあつたが、神童ではなかつたらしい。凡そ神童とは反対に、脱皮の時機が来るまでは、常人の頂点を歩いて育つていつたものだと思はれる。私は中原の訳詩を読んでさう思つたのである。そして、このことから、後日のラムボオが尚よく理解できたやうに思へた。

完

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