TRENDIA CLASSIC

ひどい煙

久生十蘭

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飯倉の西にあたる麻布勝手ヶ原は、太田道灌が江戸から兵を出すとき、いつもここで武者揃えをしたよし、風土記に見えている。大猷院殿の寛永の末ごろは、草ばかり蓬々とした、うらさびしい場所で、赤羽の辻、心光院の近くまで小山田がつづき、三田の切通し寄り、菱や河骨にとじられた南下りの沼のまわりに、萱葺きの農家がチラホラ見えるほか、眼をさえぎるほどのものもないので、広漠たる原野のおもむきになっていた。

六月はじめのある日、この原にオランダ人献上の大臼砲を据えようというので、御鉄砲御用衆といわれる躑躅の間詰のお歴々が、朝がけから、露もしとどな夏草を踏みしだき、間竿を持った組下を追いまわして、射場の地取りをしていた。

和流砲術の大家、井上外記正継、稲富喜太夫直賢、田付四郎兵衛景利の三人が鼎のかたちになって床几に掛け、右往左往する組下の働きぶりを監察していた。

井上外記は播磨国英賀城主井上九郎右衛門の孫で、外記流の流祖である。鉄砲の射撃にかけては、精妙、ならぶものなしといわれた喜太夫の父、一夢斎稲富直家が慶長十六年に駿府で死んでから、外記が天下一の名人の座についた。

大阪役ののち秀忠に仕え、大筒役として八百石、家光の代に御鉄砲御用衆筆頭大筒方兼帯を仰付けられ、世禄千八十石、役料三百俵、左太夫と通称する、代々、世襲の家筋になり、同役、御用衆のうち、鉄砲磨組支配田付四郎兵衛景利とともに大小火砲、石火矢、棒火矢、狼煙、揚物、その他、火術の一般を差配することになった。

稲富喜太夫は、父から稲富流の秘伝をうけて独得の技芸を身につけ、町打ちといって、大砲の遠距離射撃にかけては、名人の域に達していたが、父が家康の抱きかかえを脱して、尾張侯に仕えたため、喜太夫は秀忠の代になっても、依然として、新参同様の扱いをうけ、寛永も中頃になって、ようやく御鉄砲玉薬奉行に任官し、高六百石、焼火の間詰[#ルビの「まづ」は底本では「まづめ」]めになった。

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