本文へ移動
TORENDIA

春の山

本文約8,700字 ・ 読了時間 約18分

あらすじ(AIが作成しました)

鎌倉の広い空き家に住む画家・蘆田周平は、退屈で穏やかな日常を送っている。ある日、周囲の村人たちが隠れて彼岸の中日に闘鶏大会を催していることを知る。周平が誘われて見物した闘鶏の場で、無残に打ちのめされた軍鶏が、死の間際に涙を流しながら息絶える光景を目の当たりにする。平穏な春の山中で、周平は思いがけず生命の窮極の姿と人生の一大事を体験し、淡泊すぎる日々に変化が生じていく様子を描く。

久生十蘭

🎧 まだ音声版はありません

リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。

💰 この本を応援する(投げ銭)

1 / 11

蘆田周平はサンルームのつづきの日向くさい絨氈の上に寝ころがり、去年の冬から床のうえに放りだしてあった絵葉書を拾いあげた。パリのあやかしに憑かれ、ひとりで気負ったようになっている仲間がよこした自作の絵葉書である。

八月にレジェが死んだと思ったら、この月の六日にユトリロが死んだ。パリでは毎日のように人生の一大事に逢着している。そちらはどうだ。古沼の淀みのなかで、相も変らずクラゲ同然にフワリフワリしているのだろう、などと生意気なことが書いてある。

ユトリロが死んだことが、はたして人生の一大事かどうか、よく考えてみないとわからないが、周平の住んでいる世界はあまりにも無事で、ちょっと気をゆるめると、つづけさまに欠伸がでてとまらなくなる。

周平は、日本間だけでも十五室もある義姉の実家にあたる松井甲子太郎の売空家に管理人がわりに入りこみ、サンルームの脇間にこもって絵を描いているうちに、まわりの景色がいつの間にか春になっていた。

周平の住んでいる紅ヶ谷のあたりは北と東に山があり、西南が海にむいてひらいている関係で、鎌倉のうちでもとりわけ暖かく、南下りになった山曲の日だまりで二月のうちにすみれが咲く。三月になると、空は子供が絵に塗る青のようなすき透った青さになり、薄色の山桜の下で草がはげしい緑を萌えたたせるといったぐあいになる。周平は抽象画の勉強にうちこんでいるが、そのほうは順列や二項定理の問題とおなじで、観念内の仕事だから、自然や風景に用はない。

久生十蘭の他の作品

同じジャンルの朗読つきの本