一
慶長のころ、鹿児島揖宿郡、山川の津に、薩摩藩の御朱印船を預り、南蛮貿易の御用をつとめる大迫吉之丞という海商がいた。
慶長十六年の六月、隠居して惟新といっていた島津義弘の命令で、はるばる呂宋(フィリッピン)まで茶壺を探しに出かけた。そのとき惟新は、なにかと便宜があろうから、吉利支丹になれといった。吉之丞は長崎で洗礼を受けて心にもなき信者になり、呂宋から柬埔塞の町々を七年がかりで探し歩いたが、その結末は面白いというようなものではなく、そのうえ、帰国後、宗門の取調べで、あやうく火焙りになるところだった。寛永十一年と上書した申状には、吉之丞のやるせない憤懣の情があらわれている。
惟新様申され候には、呂宋え罷越、如何にしても清香か蓮華王の茶壺を手に入れるべし、呂宋とか申す国は吉利支丹の者どもにて候に付き、この節は吉利支丹に罷成り、あいさつといたし、御用等相達すべきよし仰せ聞けられ候故、拙者、申し候は、御意とは申しながら、好き申さざる宗旨に候へ共、何事も奉公の儀に御座候故、上意に任せ、此の節は吉利支丹に罷り成るべきよしお受け仕り候。云々。
吉之丞の父の吉次は松永久秀の家臣で、主家断絶後、牢人していたのを島津貴久に見出され、貴久の言付けで、長崎に船屋敷をおいて海外貿易をはじめるようになったのである。堺の木屋弥三郎、西類子九郎兵衛などとおなじように、武士から町人になった、いわゆる引込町人で、七十歳で死ぬその年の秋まで、舵場の櫓に突っ立ち、船頭や荷才領を叱しながら南方の広大な海を庭のうちを歩くような顔で乗りまわしていた。
吉之丞は十五になるやならぬに船にひき乗せられ、二十の年まで岡使や帳付をやり、阿媽ではポルトガル語を、呂宋ではイスパニヤ語を聞きおぼえこみ、片言で言葉が通じるようになったところで副財にひきあげられた。副財というのは、船主の代理として、船の運用、貨物の売買取引、一切を取仕切る役である。