一
山川石亭先生が、蒼い顔をして入って来た。
「どうも、えらいことになりました」
急々如律令といったていで椅子に掛けて、ぐったりと首を投げ出している。
スパゲティを牛酪で炒めている最中で、こちらも火急の場合だったが、石亭先生の弱りかたがあまりひどいので、肉叉を持ったまま先生のほうへ近づいて行った。
「先生、どうしました。ひどく蒼い顔をしていますね」
「実にどうも、二進も三進もゆかないことになって……」
先生はうっすらと汗をかいて、両手の中で手巾をごしゃごしゃにしたり、引っ張ったりしている。
「ほうらね。だから、言わないこっちゃない。……美人局ですか?」
先生は、今度は手巾の端を口に銜えて、手で引っ張る。田舎芝居の新派の女形が愁嘆するような、なんとも嫌らしい真似をする。もっとも、先生は夢中になっているので、自分では気がつかない。
「いや、もっと物騒なやつなんです。……美人局のほうなら、これでも、どうにか切り抜ける自信があります」
先生は、口から離した手巾を禿げ上った顔のほうへ持ってゆく。
「実は、盗っとに誘われましてねえ」
「盗っとが何を誘ったのです」
先生は、手で煽ぐようにして、
「いや、そうじゃないんです。つまり、盗っとに行こうと誘われたんです」
「いらしたらいいでしょう。……巴里の下層社会の人情風俗をうがつために、わざわざあんなところに住んでいらっしゃるんだから、そこまで磅しなければイミをなさんでしょう」
先生は、あッふ、あッふ、と泳ぎ出して、
「じょ、じょ、冗談を言っちゃいけない。そんなことはできません。……わたしは、これでも勅任官ですからね。いくらなんでも、盗みを働くというのは困ります」
石亭先生は、ベイエの道徳社会学というしちめんどうな学問を専攻していられる。
ひとくちに言うと、先生は、道徳は進歩するものか退歩するものかという、一見、迂遠な学問に憂身を窶していられるのである。