起ち上る大阪
本文約4,900字 ・ 読了時間 約10分
あらすじ(AIが作成しました)
昭和二十年三月十三日の空襲により、焼野原となった大阪。著者は、災害に屈せず、日常を取り戻そうとする人びとの姿に、復興へと起ち上がる大阪の表情を見出す。疎開せずに焼跡の防空壕で生活しながらも明るく振る舞う喫茶店主や、本屋の再開を誓う書店主など、強固な粘り強さを持つ人びととの交流を通じ、過酷な状況下でも失われない文化への情熱や、庶民が大切にしてきた地蔵信仰といった大阪の精神的な支柱が、いかにして守られ生き続けているかを描く。
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この話に「起ち上る大阪」という題をつけたが、果して当っているかどうか分らない。或は「起ち上れ大阪」と呼び掛けるか、「大阪よ起ち上れ」と叫ぶ方が、目下の私の気持から言ってもふさわしいかも知れない。しかし、この一ト月の間――というのはつまり、過ぐる三月の、日をいえば十三日の夜半、醜悪にして猪口才な敵機が大阪の町々に火の雨を降らせたその時から数えて今日まで丁度一ト月の間、見たり聴いたりして来た数々の話には、はや災害の中から「起ち上ろうとする大阪」もしくは「起ち上りつつある大阪」の表情が、そこはかとなく泛んでいるように、少くとも私には感じられた。いや、もはや「起ち上った大阪」の表情であるといっても、まるで心にもないことをいったことにもなるまいと、思われる節もいくらかはある。
思えば、こうした表情も、たとえば一ト月前であったなら、或はそれと気づかずに終ったかも知れない。が、すでにして今日の大阪は昨日の大阪の顔ではない。昨日の大阪の顔は或は古く或は新しくさまざまな粧いを凝らしていたものだが、今日の大阪はすでに在りし日のそうした化粧しない、いわゆる素顔である。つまりは、素顔の中に泛んだ表情なのである。それだけに本物であり、そしてまた本物であるだけに、わざとらしい見せ掛けがなく、ひたむきにうぶであり、その点に私は惹きつけられたのだ。ありていにいえば、この「起ち上ろうとする」もしくは「起ち上りつつある」――更に「起ち上った」大阪の表情のあえかな明るさに、よしんばそれがそこはかとなき表情であるにせよ私は私なりに興奮したのである。明るさといい、興奮と言ったが、私は嘘を言っているのではない。商売柄嘘を書く才能は持っているが、しかし、いやそれだけに一層真実への愛は深い筈である。つまりは、言葉の持つ、ことに標語的な言葉の持つ空虚な響きには、何よりもまして本能的に警戒しているのが、私たちの職業である。だが、いや、だからして、以下の数々の話につけた「起ち上る大阪」という題も、思えばまるで見当ちがいの出鱈目なものではなかったかも知れない。しかし、前書はもうこれくらいで充分であろう。